こんにちは、ナギちゃんです。

 

ずいぶん長い間ご無沙汰しております。

 

5月から6月に渡って、仕事のこと、結婚式のことなど、いろんなことがあってブログのことを、正直にいうと忘れていました。

 

今日は、「あ、そういえば、ブログしていたね」と思って、記事を書こうと思います。

 

それで、どの記事を書くか悩みましたが、これから15回に分けて、エッセイを書きたいと思いました。

 

私は1997年3月25日にソウルで生まれました。ソウルと言っても、カンナムとかドラマで聞き馴染みのある有名どころじゃなくて、クムチョン区(当時はシフンと言われていましたが)という地域です。

 

クムチョン区は、今は再開発が盛んでいて、結構ソウルらしくなりましたが、97年当時は、郊外の中でも僻地だったらしいです。

 

どれぐらい僻地だったかというと、映画「犯罪都市1」のロケ地で、2022年初めて管轄消防署ができたほどです。その上、警察署はコンテナ仮建物、区役所も一般商業用ビルオフィスを借りて賃貸期限が終わると引っ越すこともありました。

 

その中、区の唯一の総合病院で私は生まれました。その年は映画「国家が破産する日」の背景になる時期でした。

 

当時、韓国経済は凄まじいスピードで発展していましたが、その成長を過信したあまり、「何をしてもやればできる」という根拠のない自信と政府と経済の癒着からきた企業の不安定さ、腐敗が危険レベルに達しました。

 

私は3月25日に生まれ、すぐ、仁川の家に移動し、そこで育ちましたが、12月から韓国の大企業集団が連鎖的に破産する事態が発生するのです。

 

それでは、なぎちゃんは貧しい幼少期を過ごしたのでしょうか?

 

いいえ、幸い、私のお父さんは、当時、Cランク大学の機械工学部卒業でしたが、半導体業界で凄まじい研究実績を残し、「機械の神」と言われた企業研究所の若き研究所長でしたので、経済的には困ったことがなかったのです。

 

逆にお父さんは仕事に夢中で、代替えのない存在でしたので、経済的には困っていなかったのですが、むしろ会うことが少なかったです。

 

午前六時には家にいなくて、帰りも十一時過ぎだったので、お父さんと会える時間は日曜日ぐらいでした。

 

そのこともあって、お母さんは保育士資格はあるものの専業主婦として私と姉ちゃんを育てていました。

 

こう書いたら、恵まれた幼少期を過ごしたなと思うかもしれませんが、一つ、深刻な問題があったのです。

 

私の親は、親としては失格でした。

 

お父さんは感情を表すことを恥だと思って、感情を隠す上に、絶対的な権威を持っている状況に慣れていた家父長制的な人。

 

そのくせに怒ったら暴力で支配しようとした人でした。

 

子供にとって、一番わかりづらい人だったのです。

 

子供としては、親が感情をこまめに言ってくれて、怒られる理由が読みやすい方が助かりますが、お父さんは真逆。いつも自分なりに我慢しているから、子供としては大丈夫かなと思っても、それが積もりに積もった時は暴力を伴う残酷な罰があったのです。なので、いつ、何をしたら怒られるのか、もしくは許されるのかがわからなくなったのです。

 

怒られる理由が納得いかない、しかし、ただ怒られるのが怖い。この状況は私にお父さんといる時間が怖い時間と認識させました。

 

お母さんはどうだったの?

 

お母さんは理由は教えてくれても、怒る時には暴力を使う上に、なかなか許してくれない人でした。

 

そして、育児で大事な一貫性のない人。

 

几帳面で綺麗好きで、社交性のある、いい女性でしたが、お母さんとしては微妙だったのです。

 

一番記憶に残るのは、友達とお家で遊びたくて、友達を連れて家に来た時の話です。

 

家にはお母さんだけがいて、当たり前に、大丈夫だろうと漠然と思いました。

 

そうしたら、お母さんは深刻な顔で、鉄製の定規を持ってきて私を殴り始めました。

 

「なんで許可なしに友達を連れてくる?」

 

友達は殴られる私を気まずく見守っていました。

 

それがトラウマになった私は中学校3年になるまで、友達を家に招待しなくなりました。

 

そういうことで、姉ちゃんも私も性格の歪みができ始めました。

 

姉ちゃんは、正面突破をして、「親のこと、馬鹿みたい」に進化、私は「怒られたくない」に進化したのです。

 

その友達招待事件の前には、明るくて、賢く積極的と言われた私ですが、その事件以来、中学校3年になるまで、私はすごく悲観的で孤独な性格になったのです。

 

 

続く