5月4日の横須賀スタジアム。
試合は残念な結果に終わってしまいましたが、帰途にちょっとした楽しみが。

そう、角打ちです。

と、いきたかったのですが、時間の関係でそれは難しかったので、その一帯の鷹取川風景見物といきましょう。

まずは神応橋。
あのでっかいDOCK看板がある消防署の所の橋です。

神応橋

昭和36(1961)年に出来たこの橋は石積みの橋脚がきれいです。
そして見るたびにその表情が変わります。
それは鷹取川のこの辺りは汽水域となっていてカキがへばりついた川底の岩を見せてチョロチョロと流れていたり、ドロッとした水を満々にたたえていたりと時間ごとに水位が変わるからです。

神応橋

流れの中には小魚が群れていたりクサフグがのんびりしていたりするので、ついついのぞき込んで時間をとられてしまいます。

その神応橋のビュースポットとなっているのが50mほど上流に架かっている昭和27(1952)年に竣工の天神橋です。(1988年に架け替えられているみたいです)

で、その天神橋から神応橋を観るのもいいですが、振り返って上流を見ると。

鷹取川

川の上に建つ商店の裏側です。

いやー、ものの見事に川上ですねー。

鷹取川

川沿いに歩いて堪能したかったのですが、道がありません。
なので商店街を駅方向に少し進んで店の隙間の第二本浦橋というらしい橋を渡って対岸へ。
渡った先も川べりの道は無く建物を隔てての道なのですが、こちらにも住宅に混じって呑屋があったり取り壊しを待つ団地があったりとなかなかの雰囲気です。

でもすぐに突き当たってしまったので左折。
するとコンクリート製の小さな橋が。

夫婦橋

名前は夫婦橋。
ちょっと変わった雰囲気ではありますが、とくにこれといった特徴はなさそうですね。

と、思ったら。

夫婦橋

なんと昭和8(1933)年架橋ですわ。
齢91歳です。いやー、なんとも。

鷹取川はその先で夏島貝塚通り(横須賀市道追浜~鷹取線)に寄り添うのですが、その辺りでは暗渠になってしまってその姿は見えません。
もっとも、暗渠と言っても建物が覆いかぶさっていてふさがれているという状態です。大きな建物では妙にセットバックされているという感じかな。

ウン。楽しかった。
鷹取川が姿を現すのは駅前で国道16号沿いに曲がった先の様です。
今度はその続きを追って鷹取山まで行ってみたいですが、試合観戦のついででは難しそうですね。

さて、では、なぜこの様な川上商店街が出来たのでしょうか。
単純に考えれば戦後に道沿いに作られた闇市から発生した商店が道路拡幅によって川上にせり出してしまったというところでしょうね。
でも本当にそうなのかなー?

この追浜という町ですが、その昔は小さな漁村だった様ですね。
今でこそ工場地帯の真ん中になってしまっている夏島貝塚も昔はちゃんと島だった様です。
で、そのちょい手前にあった烏帽子島が地域の先端で周りは干潟が広がっていたようです。
夫婦橋がある道はその頃河口付近で鷹取川を渡る唯一の道だった様ですね。

迅速図
農研機構農業環境研究部門より

神応橋の辺りは浜辺ですね。
でも、当然このような土地を軍が放っておく訳がありません。
干潟は埋め立てられて飛行場などが作られました。
そんな施設があるからにはそこへと通じる道が必要になります。
で、大正14(1925)年に国道31号(今の国道16号)からそこまでの国道特23号が作られました。特が付く国道は軍道です。幅は約9mでこれが今の夏島貝塚通りでしょう。

でも道が出来ただけでは商店街はできませんね。
今でこそ道さえあればそこにショッピングモールを作れば人は車でやって来ますが、100年前ではそうはいきません。
追浜の場合も最寄りの駅は横須賀線の田浦で、そこからバス(あったのかな?)などで行ってしまい、寒村の単なる交差点で途中下車してまでは無いですね。

そんな状態の所に昭和5(1930)年に湘南電気鉄道、現在の京浜急行が開通して追浜駅が出来ました。
と、なると話は変わります。
軍施設への行き来は追浜駅からとなります。
そうなると一旦人がそこに滞留しますので、商売のチャンスですね。
「仕事帰りに1杯やってこうか」もありですからそちらの商売もいいですね。
なおかつ、普通の会社ならそれは夕方だけですが、軍関係だと2交代なら1日2回。3交代なら3回です。商売繁盛~。
また、鉄道が出来て横須賀の町や東京へ行きやすくなりました。
するとここで働いていた人も便利ならと移り住んできます。
明治末期には5000人ほどの人口が今では30000人。
呑屋だけでなく日用品屋も成り立ちますね。
かくして、道沿いに商店街が形成されました。

それはおそらく戦後に軍施設が今の企業に代わっても続いたことでしょう。

そうなると、車も人も増えますので9mの道幅ではちと狭い。歩道も無いと危ない。
と、いう事で昭和40(1965)年に拡幅され、現在の夏島貝塚通り(この命名は1995年)の形態になった時に川と道にの間にあった商店が川上となったのでしょう。
勿論、戦後のどさくさ時期ではないので特別な許可があったものと思われます。

ところが、戦争直後の航空写真を見ますと、1946年では鷹取川の天神橋と第二本浦橋の間の川幅が広いですが、10年後の1956年ではそこに蓋がされているように見えます。
拡幅より10年も前ですね。
道幅も1946年と今で変わりないような。
駅付近は今と同じように暗渠になっているようにも、流れが商店街裏で緩やかな曲線を描いているようににも見えます。
蓋の方は鷹取川の洪水対策で何らかの工事が行われて半分が暗渠になったのかもしれません。天神商店街はその上に出来たのかな?

さてさて、川上になったのは拡幅によるものなのか、戦後のどさくさによるものなのか、どっちが正解なのでしょう。

ちなみに、この1946年の写真には1961年架橋とされる神応橋と1952架橋とされる天神橋らしき橋も写っています。

国土地理院航空写真
国土地理院航空写真1946/02/15(昭21)より

この辺りの鷹取川は軍事施設建設の埋め立てにより形成されたものでしょう。やけにカクカクしています。
ただし、物資輸送の運河としては浅いので軍用地と民地を隔てる堀のようなものだったのではないでしょうか。
で、二つの橋は軍施設内の橋としてもっと以前に作られたものが後にそれぞれの時に架け替えられたものなのであると言えるのかもしれません。
考えてみれば昭和中期に石造りの橋脚というのも変ですからね~。

これらの事は再訪して地元の古老にでも聞いてみないといけませんね。
でもすでに私がそちら側に入りつつあるような時代だからなー。

鷹取川