旧旧旧旧旧くらいの会津西街道
栃木県日光市高徳の鬼怒川に架かる会津西街道こと国道121号線の中岩橋。
この橋を渡った左岸崖上にいくつかの石仏があります。
お地蔵様とか、大日如来とか書かれた石仏。
これらの石仏は元々現在の車道橋(1968年完成)が通っている場所に、旧橋(1936完成 現車両通行止)に沿うように存在し、新橋を架けるにあたり現在位置に移動させられたものだそうです。
近寄ってその建立年月日を確かめたかったのですが、かつてはそこへ行くためであったという階段は草と排水か何かのパイプたちに遮られて通行は困難。
しかももう随分と長い事誰も訪れていないであろうその場所は断崖絶壁の上で、下には道谷原発電所へと続く水路トンネルが口を開けています。
落ちたら絶対助からない。
なので年代確認はあきらめました。
が、その中に
勝善神。
お地蔵さまや大日如来はそれこそ田んぼの片隅にも建てられるような数多い石仏ですが、勝善神は街道沿いに建てられる事が多く、しかもこの信仰が流行ったのは江戸末期から大正時代。
―― 馬頭観音が馬の健康や供養であるのに対して、勝善神は良い馬が生まれるようにと願う物。――
つまり、中岩橋は江戸末期から大正にかけて架橋され、ここが会津西街道になった、という事です。
しかし、これでは年代幅が広すぎますね。
資料によっては、
「中岩橋は幕末に架けられた」
とありますが、
明治初期に撮られたこの写真には
長崎大学附属図書館所蔵「中岩」
中岩橋がありません。
――この写真は長崎大学附属図書館 http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/から許可を頂き掲載しました。――
では、そもそもの会津西街道は何処を通っていたのでしょう。
大桑付近の旧121号線は立派な杉並木です。
この部分はまぎれも無い会津西街道。
その杉並木は道の両側と少し間を開けたもう一列の二重になっていて、旅人が休憩するスペースであったとか、大名行列がすれ違うためとか言われています。
今風に言えば側道付き高速道路です。
東側の側道部分にはかつて滝(現鬼怒川温泉)発電所建設軌道~下野電気軌道が通ってもいました。
この杉並木は一旦大桑宿で途切れますが、1644年から1648年にかけて植えられた杉並木は現在の杉並木寄進碑の所から更にまっすぐ鬼怒川を目指して植えられていました。
この旧杉並木と呼ばれる道は大桑~寺前~東原~間島と古大谷川(大昔大谷川はここを流れていた)に沿うルートを通り、籠岩の渡しを経て舟生街道に合流していました。
また、初代の杉並木寄進碑(この碑までが日光神領となります)は籠岩船場に建てられていたそうです。
このルートが初代会津西街道です。
鬼怒川 籠岩
(実はまだ現地調査をよくは行っていません)
しかし、この高速道路末端部は長くは持ちませんでした。
1723年に発生した五十里洪水が大桑宿から先の部分を押し流してしまったのです。
――五十里洪水。
1683年に発生した日光大地震により鬼怒川上流の葛老山(湯西川温泉駅付近付近にある)が崩壊して川を堰止めてしまいました。
このままでは危険であるとその自然湖の水を抜くべく高木六左衛門を筆頭として工事が行われましたが崩れ落ちた大岩盤に阻まれて完工する事は出来ませんでした。
40年後の1723年に大雨でその自然湖は決壊し、高徳付近はもとより、宇都宮や真岡まで達した洪水により1万人以上の死者を出しました。
高木六左衛門は工事失敗の責任をとって自害しました。
近年架けられた五十湖沿いの121号線バイパスの橋には「ろくざみおくりばし」「ろくざゆめあとばし」などと彼に由来する名前が付けられています。――
この五十里洪水で流されてしまった杉並木は復活しませんでした。
代わりに作られたのが二代目会津西街道。
この道は、大桑~堂の下~とうか様前~鬼怒川端~石塔島中央~高徳渡船場、というルートになりました。
ではその道を辿ってみましょう。
杉並木寄進碑を過ぎた先で細い道が踏切で東武鉄道を渡ります。
高速道路から1車線の隘路といきなり変化するも路傍には馬頭観音。
墓地の脇を抜けて国道121号の大桑バイパスを横切ると
田んぼの中でクイッと左に曲がって
その先は道が無くなって耕地整理が済んだ土地が広がるばかり。
その向うはゴルフ場(鬼怒川カントリークラブ)です。
仕方が無いので現会津西街道で鬼怒川の対岸に渡ります。
資料には籠岩より5町上流(約550m)のホオノキ岩付近とあったので、それらしき道に入っていくと、
これ、ホオノキ岩かなー?
近所の人に聞いても解りませんでした。
でもここへ降りて行こうとしたら、
道みたいなものがあってその縁には石積みが。
自然にこんな感じで石が積み重なる事は無いですよねー。
降り切ってみればこんな感じ。
川を渡るにはいい感じですよね。
船にしろ橋にしろ。
少し上流には
中岩橋。
江戸時代末期。ここに橋が架かっていて「中岩」を名乗っていても不思議では無い距離です。
ちなみに二代目の杉並木寄進碑はこの船場付近の一丈余(約3.3m)の岩の上に建てられたそうです。
ルートにある石塔島はこの碑が建てられたからその名になった、という説もあるようです。
とすると、石塔島の前に鬼怒川端があるので、石塔島=ホオノキ岩となりそうですが、昔、現鬼怒川カントリークラブがある土地は鬼怒川の中州だったとか。
するとゴルフ場が石塔島となりそうですね。
はたして、ゴルフ場の中に3mの岩が屹立しているのかどうか。
ところで、降りて来たのはこんな崖でしたが
中年ヒーヒーの私でも降りてこられたんだからもう少し整備されていた昔では特に苦は無かったでしょう。
でも、馬で荷を運ぶにはちょいと急すぎるような。
一の谷じやないんだから一か八か馬を落としてみてなんて事はして無かったろうし、いくら昔は整備されていたとは言え、こんな所を大名行列が通ったら籠の中のお殿様はどんな格好になっていたのやら。
そもそも会津西街道は会津地方の米を江戸に運ぶための道。
そのルートは会津から山王峠を越えて高徳まで来ると鬼怒川を渡らずそのまままっすぐ舟生街道を行って阿久津の河岸から船で鬼怒川を下る。
つまりこちらの方が本来の意味での会津西街道ですね。
現在の今市~高徳までの部分はいわば日光山の威光を顕示せんが為のものだったのではないでしょうか。
ちなみに日光大地震の際に会津西街道も通行不能となりました。
そこで会津中街道が整備されたのですが、そのルートは那須岳を超えて来るもの。
それに比べればなんともないか。
コメント(2)
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すごい! こんなにものすごい調査だとは思ってもいませんでした。感動です。のちほどゆっくり再度熟読させていただきます。 2012/6/12(火) 午前 1:00 |
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sowakaさん、 まとまりのない文章ですので、よほどお暇な時にでもごゆっくりと(笑) 2012/6/13(水) 午後 6:18 |