<20年よろしく                                  ж 9 ж 箱根 その1>

ж37ж 茶碗でご飯

 投稿日時 2010/11/13(土) 午後 7:55 書庫焼物の間    カテゴリー その他芸術、アート
 


コテで底を決めて



************ 借窯徒然 ************ 

   ж37ж 茶碗でご飯

 では、目を閉じてください。


…………


あっ、すんませ~ん。目開けてくださ~い。そのままですと先に進みませ~ん。
でも、ここまで読み進んだ人、勝手に目を開けたか、つぶっていなかったかですね。

 では改めて。
 目をつぶって茶碗を思い浮かべて下さい。
 
 その茶碗はどんな茶碗でしたか?
 多くの方が表題からご飯茶碗を思い浮かべられたのではないでしょうか。それもいつも愛用の茶碗。ほかほかご飯の盛られた茶碗。
 では、いただきまーす。
 ムシャムシャ(うっ表現が古い)
 ご馳走様。
 「おーい、お茶」(これも懐かしい)
 はい、どうぞ。トポトポトポと茶碗へ
 ウム。ズズッブクブクゴックン(うがい飲み?)
 ヨシヨシ。茶碗も綺麗になるし一石二鳥。

 あれ、なんか変な方へ行っちゃった。でも変ではないと言えば変ではないかも知れません。だってご飯を盛ってあったのは茶碗なのですから。で、飲んだのはお茶。この時白湯でも飲んだのなら湯呑でないと変ですがお茶なのですから茶碗に注がれてもなんの問題も無いはずです。
 という事で今回は、なぜ茶碗にご飯を盛るのか、についての話です。でも前もってお断りしておきますが結論はありません。歴史的伝承をかいつまんだ疑問形ばかり、史実を語る物ではありませんのでご了承を。(あっ、いつもそうですね。でも歴史なんてものはそこから始まっているんです。歴史=事実ではありません。事実を伝える人の主観からなるものが歴史です。だから今の歴史は史実から学んで現代の生活や未来に活かす物ではなく、受験の為に学ぶ物になってしまっているのです。ぐちぐちぐち)
 さて、話がごちゃごちゃしてしまいましたので整理しましょう。
 なぜご飯を盛るのが茶碗でお茶を注ぐのが湯呑なのでしょうか。
 食器は大別すると碗と皿に分けられます。皿は小皿から大皿まで様々な大きさがあり、またその深さによって深皿などがあります。(深皿が進化すると浅鉢でもっと深くなると鉢?)
 碗は大きさがほぼ手に収まる大きさ。大きくなると丼で小さいと小鉢(あれっ?)。でもその深さ形によって呼び方は様々。比較的浅めで縁があまり湾曲しておらず斜めになっているのが飯碗(ご飯茶碗ですね)。気持ち深めで湾曲しているのが汁碗(味噌汁ですね)。そして丸かったりまっすぐだったりで、小さめあり大きいのありが湯呑茶碗(あっ汲出しもありますね。以前書いたコーヒーカップもコーヒー碗という言い方があります)。
 う~ん、ますますごちゃごちゃになってしまいました。  
 これは詰まるところご飯とお茶がごっちゃになってしまった故ではないのでしょうか。
 お茶が日本に入ってきたのは天平(奈良時代740年頃)の時分だそうで、一方焼き物はその遥か前、縄文時代まで遡ります。もっともその時代では器と言うより鍋の感覚だったみたいですね。器は葉っぱかな?。
 その後偉い人達は器として木器を使うようになったみたいで、(木器を作るには木を切る為にノコギリやくりぬく為のノミが必要となりますね。ノコギリは5世紀ころに出来たみたいです)焼き物の碗はいつから使われ始めたのか?神棚にご飯をあげるのは皿ですね(木の皿もあったけどなんて言ったかな)。碗ではありません。焼物は神事に使われるのが主だったのかな。
 さて、お茶はやはりそもそもは庶民ではなく偉い人や坊主達の楽しみのものだった様です。もしくは薬。庶民には縁が無かったのですね。では庶民は何を飲んでいたのでしょう。そう白湯です。食後に飲むのは白湯。だから湯呑です。
 初期のお茶は煎茶と抹茶。煎茶は文字通り煎じて飲むもので現在の様に急須にお湯を注ぐだけのインスタントになったのはずっと後の話。抹茶は粉末にした現在の茶道で使われているやつですね。
 インスタント茶(揉み茶)が出来てからは武士そして庶民へとお茶文化は広がっていった様ですが、まだまだ贅沢品。
 さて、お茶が茶道としてはやりだすと当然それの道具である茶碗を作る人が必要となる訳ですが、その人達はやはり一部の人が使う茶道具を作るだけでは暮らしていけません。そこでアルバイト的に庶民向けの茶道具を作ってみたのですがお茶が庶民が手を出せる代物ではない以上売れるはずがありません。それではとPR。「気分だけでもお茶してみませんか。茶碗の使い道はお茶だけではありません。ご飯を盛っても、汁でもお湯でもいいんですよ。いろいろな形がありますから使いやすいのをどうぞ」
それに庶民が乗りました。
「憧れのお茶。そのまねだけでも出来るなら」
 で、井戸型が飯茶碗、筒型が湯呑茶碗となっていきました。ところが汁物は木器のまま。ちょっと良いとこなら塗り物です。これはそもそもこの形から呼ばれる碗型茶器をわざわざ使うまでも無かったと言う事。
 この事により茶碗でご飯が食べられる様になったのです。(あくまでも私の想像です)
 余談ですが、昔は緑茶が手に入りやすくなっても(それでもある程度の富裕層に限られますが)食後にそれを飲む事は無かったそうです。緑茶は来客時や食間(つまりおやつ)に飲まれたそうです。では食後に飲んでいたのは何か。それは焙じ茶。なぜその様な風習になったのか、古の人がどのような考えを持っていたのかは解かりません。しかし、現在の研究によってそれが実に理にかなった事だと言われています。そのポイントはカフェイン。カフェインは鉄分の吸収を妨げます。よって食後に緑茶を飲む事は実は良くないのです。コーヒーでも同じです。しかし、焙じ茶にはカフェインが含まれていません。ですから食後のお茶に適しているのです。旅館に泊まると部屋に通された時出されるのは緑茶ですが食後に出されるのは焙じ茶という所が多いのもその為なのです。

 あ~、やっぱりさっぱりまとまらない文章になってしまいました。困った物です。困った物と言えば益子焼の抹茶碗もその道では認められていません。ですから益子で抹茶碗を作る人は少なく皆さんもあまり目にした事は無いのではないでしょうか。練習用にという安価な物はぽちぽち出はするみたいですが、本当に人をもてなすのに用いるにはちょっと、という事なのでしょうか。私は茶道のそのあたりの考えをよくは解かっていませんから、そんな者が作った抹茶碗なんてとんでもない、となりそうなので今のところ作るつもりはありません。益子自体も茶道界に認められるようグレードアップすべきなのか、原点に戻って民芸(それも原点ではないような気がしますが)を進むべきなのか・・…。   


--第37号(平成20年2月10日)--

猫と鉄道 トップ → http://www3.yomogi.or.jp/skta1812/main/index.html

猫と鉄道  書庫  → http://www3.yomogi.or.jp/skta1812/syoko/syoko.html

コメント(0)