<ж 32 ж 「飯くれダンス」                                  ばそき屋>

ж 29 ж はるばる来たぜ

 投稿日時 2010/6/5(土) 午前 6:30  書庫 鉄道の間  カテゴリー 鉄道、列車
 

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 今、東京から函館までの所要時間は約6時間である。
 もちろん鉄道を使っての話で、飛行機であれば1時間20分しかかからないが、セオリー通りその話は割愛させていただく。仮に朝6時30分に「よーいドン」で東京駅をスタートしたら、いくら飛行機が乗り換えや搭乗手続きに手間がかかったとしても仙台あたりで追い越されてしまって、「やはり飛行機は便利だ」で話が終わってしまうからである。
 で、今でこそ6時間で行けてしまう函館ではあるが、私がはじめて渡道した昭和60年2月の頃には、新幹線が上野~大宮開業直前の暫定営業およびもちろん青森~函館は連絡船で、その所要時間は約11時間30分であった。
 中途半端な新幹線ではあったがその力は偉大で、それ以前より約2時間所要時間は短くなっている。名門特急「はつかり」は上野~青森で9時間を要していた。
 かつての上野駅は東北へ向かう特急と急行が切れ間無く踵を返していた。そんな上野駅へ写真を撮りに行き、仙台や盛岡、青森といった行き先表示に、いつかは乗ってみたい、と夢を持っていたものである。
 しかし、昭和57年の東北新幹線暫定開業によりその夢は潰えた。昼間に「青森」という行き先表示は見られなくなり、代わりに「新幹線リレー」と表示されたまったくもって旅情をそそられない薄っぺらな電車が目に付くようになってしまったのである。
 そんな過渡期に北海道への計画を立てた。学生生活も残り1年となり、北海道ワイド周遊券をフルに使えるチャンスはもういくらも無い事に焦りをも感じたからである。
 当時の北海道ワイド周遊券は東京から31500円のところを学割で23300円。さらにそれが冬季2割引きとなって、18640円で周遊区間内は特急も含む自由席車と国鉄バスに20日間乗り放題であった。往復の経路上では急行の自由席も使える。貧乏学生には涙が出るほどありがたい切符である。
 この切符での上野からの定番は急行「八甲田」であった。この列車を利用すれば上野を夜に立って翌日の昼前には北海道に第1歩を記せる。
 だが、私はあえて昼間の列車で上野を立つことにした。かつての旅人がたどった道をじっくりと味わってみたかったからだ。無論夜行列車で一気に青森を目指すのに比べれば時間は余計に掛かるが、切符の有効期限はたっぷりとあるし、第一「八甲田」で19時過ぎに出発して5時間しか使わなくても1日は1日、上野を朝立って14時間使っても同じ日数の有効期限消費となる。
 上野9:53発「まつしま3号」仙台行き。
 新幹線開業により東北への昼行特急は廃止されたが、暫定開業ゆえ一部の急行列車は残された。「まつしま」もそのうちのひとつではあるが、上野~仙台の名だたる急行であった昔の姿は無く、9両編成のうちグリーン車を含む6両は「ざおう1号」山形行きで、福島から先はたった3両の寂しいものとなる。
 上野出発時点でさらりと埋まった座席は大宮で満席となった。だが、宇都宮で半数が下車して、黒磯を過ぎ、白河を越えて東北に入るとどんどん空いて行き、福島手前で「ざおう」編成へ移る人が拍車をかけて、「まつしま」はみじめなほどガラガラになってしまった。
 田んぼの中に「白松が最中」の看板が目立つようになり、小さな駅に停まって町へ買い物にでも行くのか親子連れなどをぽつぽつと拾って14:50、仙台着。ここから盛岡まではかつての繁栄を思い起こさせる列車は無い。接続の案内や構内放送もしきりに新幹線を勧めるが、私が納まったのは八戸行きの普通列車。かつて、かつて、かつてぐらい昔には夜行急行などで上野でも見られた古びた客車列車である。
 15:08仙台発。列車は思いの外旧型客車には似合わない高速で東北らしい田んぼの中を進むが夕闇の方がそれよりも早かった。小牛田、一関と進み、北上川が寄り添っているであろうあたりではもう何も見えない。
 仙台から5時間かかってきらびやかな盛岡駅に着く。懐かしい「はつかり」が停まっていた。
 更に2時間、闇の中を走って22:40八戸着。先へ進む普通列車はもう無い。ラストスパートは最終の「はつかり21号」。7分ほどの待ち合わせで人気の無いホームにヘッドライトをこうこうと照らして、青と白の車体を滑り込ませてきた。行き先表示は「青森」。
 幾度と無く羨望の眼差しで見送った列車に乗れるのはうれしくあったが、やはり凋落感は否めない。薄汚れた二重ガラスは車内の明かりを反射して外は全く見えず、1/3ほどの座席を埋めた乗客は皆押し黙っていた。
 デッキにぶら下がっていた連絡船の乗船名簿の白い方を1枚むしり取って23:54青森着。ほんの少し前に到着した「白鳥」が堂々とした姿で羽を休めている。 
 ホームを先頭方向に歩き階段を昇って長い通路を進むと連絡船乗り場だ。係員に乗船名簿を渡し羊蹄丸の船客となる。
 やがてスピーカーから銅鑼の音が流れ日付の変わった0:35出航。多少混んではいるが十分に横になれる程度だ。案内放送の後海峡の様子が付け加えられ、「多少の動揺が予想されます」に不安を覚える。
 出航後デッキに出てみたが、遠ざかる青森の町以外は全て真っ暗。寒さと風に耐えてしばし、船室に戻る頃船がゆれ始めた。やがてまっすぐに歩けない程になり、皆寝る以外に仕方が無いという状況になった頃、一本の縄に結ばれた数人の人が引っ張られる様にトイレへと向かう姿が見かけられた。
 別に、何が何でも寝なくてはならない、という立場ではなく起きていても良かったのだが、案内放送が流れるまでの記憶が無い。
 いくらかでも見えるかと思った函館山は闇に溶けていて、海峡の真っ只中と様子は変わり無かったが船の揺れはおさまっていた。
 やがて速度が落ちて大きく向きを変えると防波堤の赤い明かりを過ぎる。列車であれば駅構内に入った、というところで、すぐに到着となるのだが、連絡船はそこからが長かった。
 防波堤を過ぎてじりじりと進みやっと桟橋が見えて来たところでぐるりと向きを変える。気の早い人は早くから下船口で荷物を抱えて待っているが、慣れた人はまだ寝そべってのんびりとしている。
 やっと、桟橋側タラップが目の前に来た。着岸の衝撃に備えて手すり等に掴まる様に案内が流れる。
 クン、という軽い衝撃で接岸。もやい綱でしっかりと北海道に固定されるとタラップが伸びゲートが開けられ、「お疲れ様でした」の案内。
 ダッと駆け出して行くのは札幌方面への列車の自由席を狙う人たちであろう。接続しているのは「北斗1号」と「北海1号」、共に札幌行き。
 人の流れが緩やかになってから下船。ついに到着した嬉しさと、無事に海峡を渡りきった安堵感をもって北海道へ第1歩を記した。
 時刻は4:30。上野から18時間30分の旅であった。


 翌年冬再び北海道を訪れた。前年は往復とも連絡船が夜行便だったので上野を夜行で立ち朝の便に乗った。
 夜行列車で上野を立つと青森まではあっという間である。発車と同時に一杯やって一眠りすればもう陸奥湾が見えている。
 しかし、その分連絡船内では起きているので海峡は長く感じるかというとさにあらず、去り行く八甲田の山々や刻々と形を変える下北半島と津軽半島、そして近づく北海道に、夜行便では営業していない食堂や喫茶の探検、などとやっていると4時間なんてあっという間だ。
 函館湾に入ってからも函館山や函館ドッグなどを眺めていると下船の支度に忙しくなってしまう程である。
 この時の上野からの所要時間は13時間であった。
 その翌々年にも渡道した。この時も昼行便に乗るべく夜行で出発したが常磐線経由だったため1時間程余計にかかった。しかし、全体としての感覚では更に早く着いた様に思えた。
 更に調子付いて翌年も渡道した。しかし、その時にはもう連絡船は無かった。
 新しく開通したトンネルは潜り抜ける事自体は楽しみであったが、ただ通りぬけるだけでは何か物足りない様な気がして、吉岡海底駅見学を組み込んだ。
 それにより上野~函館の所要時間は連絡船と変わりないものとなったが、あっけなく北海道に着いてしまったという感じはぬぐいきれず、陸地伝いに見える函館山は、「北海道に着いた」ではなく「北海道の旅を終えて内地へ帰る」という雰囲気であった。
 だんだんと函館が東京に近づいて来てしまったようだ。やがては東京駅で「函館行き」という新幹線が見られる時が来るであろう。しかし、それをかつてのように羨望の眼差しで見ることが出来るであろうか。
 翌々年、また北海道へ行った。しかし、上野を夜行で立ち目が覚めた時列車は噴火湾沿いを走っていた。 


--第29号(平成18年6月10日)--

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 コメント(4)

 

 

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上野~青森の夜行は周遊券で何度も乗ったのに、昼間特急は乗るのを忘れてました(泣)。
その後。東北の夏祭りに合わせた臨時昼間特急にやっと乗ることができたのが嬉しかったです。車窓をみるならやっぱり昼間ですんね(爆)。  
2010/6/5(土) 午前 6:53  LUN
 
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LUNさん
私も上野発の長距離列車というとなぜか夜行列車の利用がほとんどでした。
あれだけ昼間の列車がガンガン走っていたのに惜しい事をしました。  
2010/6/5(土) 午前 8:02  NEKOTETU
 
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交直流急行、唯一乗ったのは富山地鉄内の「立山」だけでして・・
「まつしま」、そして仙台以北の旧客の旅・・今では絶対に味わえない貴重なモノですね。

“スプリンターと呼ばれた「くりこま」に乗りたかったですが、叶いませんでした。・・・「昭和」と共に去った青函連絡船、もうすぐ四半世紀が過ぎてしまうのですね。
2010/6/5(土) 午後 7:54  哲ちゃん+Mc169  
 
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哲ちゃん+Mc169さん
あの頃は選択肢が多すぎてその結果乗れなかった列車が山ほど(涙)もう四半世紀ですか、ずいぶん昔になってしまいましたね。
2010/6/5(土) 午後 8:18  NEKOTETU