「朝鮮総督府鉄道、南満州鉄道 7列車急行のぞみ-昭和17年4月17日」 (1)復活?>
ж 5 ж 戦後60年特別編 「朝鮮総督府鉄道、南満州鉄道 7列車急行のぞみ-昭和17年4月17日」 (2)
2008/12/30(火) 午前 9:41 続、時刻表昭和史 鉄道、列車
6月20日、3年をすごした奉天を後にした。その1月ほど後のソ連参戦により奉天は市街戦に見まわれた。まさに間一髪のところであった。私が今こうして無事にいられるのも大尉の、進学そして予科錬へという、助言によるところが大きいのだが、その大尉の消息はその後判らない。母親の様に世話をしてくれた寮のおばちゃんの行方も知れない。
行きに通った鉄路を逆にたどって釜山着。手にしているのは切符ではなく通信学校の入学通知。これを持っていれば無料で列車に乗れる。もちろん連絡船もである。
当時軍関係の公務であれば無料で列車に乗れた。予科錬入隊の為も軍公務とみなされまだ軍人ではない身分であっても無料で乗れたのである。召集され指定された部隊へ出頭する人も同様で赤紙という無料切符を手にして列車に乗ったのである。
翌日釜山到着。すぐに連絡船に乗ったがこれが一向に出港しない。2日しても3日しても出港しない。
ここに来てはじめて日本の戦況を知った。対馬海峡はすでにその制海権、制空権をアメリカに握られていて危なくて出港できなかったのである。
たまたま乗り合わせた若者が私と同じく防府の通信学校へ入るというのを知ってその先は2人での行程となったがやはり船はなかなか出ない。
数日後の夜やっと船は動き出した。しかし、まっすぐに下関へとは向かわずまず朝鮮半島に沿って北上を始めた。しばらくそのまま進んだ後やっと向きを変えると日本海を横断し能登半島沖に達した。そこからまた陸に沿って下関を目指したのであるが山口県に差し掛かったところでまた動かなくなった。敵潜水艦がいて危険でもうこれ以上進めないと言うのである。
やがて小さな漁船が横付けにされた。その船に乗り換えて上陸。近くの須佐駅から山陰本線で下関に向かった。
下関で山陽本線に乗り換えて三田尻(現防府)駅着。駅から通信学校まで約2里の道のりを歩いた。日付は7月1日になっていた。行きは故郷から奉天まで4日で付いたのに実に10日以上かかってしまったのである。
真新しい緑色の2種軍装に身を包んで予科錬通信学校生となった。2種軍装とは夏服の事で冬服は黒の1種軍装。もちろんどちらも7つボタンであるが、私が1種軍装に袖を通す事は無かった。
通信学校の隣に飛行学校があった。実は私は通信学校ではなくそちらの飛行学校を希望していたのだが、すでに教練に使用できる飛行機は無く通信学校へまわされたのである。
かろうじて飛行機のあった時に入学した1~2才上の人達はその飛行機に乗って特攻へと飛び立って行ってしまい2度と戻らなかった。いよいよ飛行機が無くなると、特攻隊員達は飛行機のあるところへと陸路学校を後にした。そんな人達を幾人も見送った。
一方私達は通信学校とは名ばかりで、毎日銃剣術の鍛錬に明け暮れていた。目的は半年前にアメリカ軍の手に渡った沖縄の奪還である。
こちらもまさに玉砕覚悟の作戦ではあるが、毎日訓練ばかりで一向に出発の命令が下らない。というのも、もう沖縄に向かおうとしても船も無かったからである。
何から何まで無いものばかりであったが、食料だけはふんだんにあって、毎日白い飯を食べる事が出来た。しかし、これが軍だけの特別な事である事をやがて知った。
そこは通信学校とはいえ隣に飛行場もある軍施設である。よって空襲の標的とされる。したがって空襲時に留まっていれば確実にやられる。そこでその時は近所の民家に逃げ込むのである。そして逃げ込んだ先の食事を見て驚いた。米などほとんど入っていない薄い雑炊を食べていたのである。上官にその事を問うと「おまえ達はもう先が無いから食っとけ」と言われた。
広島に原爆が落とされたのを知ったのはその2~3日後であった。
一部学生は広島へ救助に入ったが私達はあいも変わらず銃剣術にせいを出していた。
8月15日、飛行学校の校庭に集合、の号令がかかった。その後訓練は無くなった。
数日後、帰郷の令が下った。倉庫にはまだ沢山の食料があったが肉や魚は腐ってしまうので米だけを1斗ほどかついで駅に向かった。8月22日であった。外に手にしていたのは軍刀と復員証明書である。この復員証明書が故郷までの切符であり、提示すれば無料で列車に乗れた。
しかし、改札は通れても列車はなかなかやって来なかった。多くの車両が焼かれ線路もいたるところでずたずたになり列車ダイヤは存在していないに等しいものであった。
仕方なく貨物列車に乗った。屋根の無い貨車である。
列車は広島で1時間ほど停車した。何も無かった。ひどいと思った。その先の町も全てめちゃめちゃであった。
大阪に到着すると、東京では軍人は捕まってアメリカに連れて行かれる、という噂を聞いた。
せっかく帰れると言うのにアメリカに連れて行かれてはたまらないと思い、手にしていた軍刀をその場に置いた。
大阪からとりあえず米原まで進む。東京を通らず新潟まわりで帰ろうかとも考えた。
満州での苦人の事を思い出した。日本人もあの様にされてしまうのだろう、と。
米原で東京から来た軍人に話を聞くと、その様な事は無い、というので東京へ向かった。
東京には深夜になって着き、その晩は上野駅で一夜を明かし翌朝東北線に乗った。
どの列車も大変な混み様で車両にぶら下がる様に人が乗っていた。
小山の親類宅に顔を出し米を半分置いてから両毛線へ。
故郷の富田駅に足を降ろしたのは8月25日であった。
さあ お前たち
欲しいものを持てるだけ持って
家へ帰れ
と 班長の声
暑い日だった
食べ物を
衣嚢袋にいっぱいつめて
復員列車に乗った
家を出てから3年半
駅へ降りた
故郷の山や川
家を出た時と同じだった
戦争は終わったんだ
家へ帰るんだ
夢心地で歩いた
家をでるとき
大ぜいのひとに送られたが
帰りは俺ひとり
暑い日ざしのなかを
わずか1里足らずの道が
とてもとても遠かった
齋五澤利夫詩集「寒椿」より
幾多の幸いにより私は帰りの無料切符を手に入れる事が出来たが、まだ多くの友人知人が帰ってきていない。
--第25号(平成17年8月6日)--
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伯父、齋五澤利夫は2008年5月永眠いたしました。
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戦時中に満州に渡った伯父の話です