<ж 2 ж 東北本線─昭和40年代前半(4)             ж 5 ж 戦後60年特別編

      「朝鮮総督府鉄道、南満州鉄道 7列車急行のぞみ-昭和17年4月17日」 (2)>
ж 5 ж 戦後60年特別編 「朝鮮総督府鉄道、南満州鉄道 7列車急行のぞみ-昭和17年4月17日」 (1)              
             投稿日時2008/12/30(火) 午前 9:33  書庫続、時刻表昭和史  カテゴリー鉄道、列車

ナイス0


私は昭和37年生まれで当然戦争体験は無く、せいぜいが、京浜急行の焼け落ちた残骸をさらしていた旧平沼駅や川崎駅地下道でアコーディオンをひく傷痍軍人の姿というところです。
しかし、私の親の世代は戦争体験者で特に伯父からは貴重な体験談を聞かせてもらいました。
そこで、今回は戦後60年という事でその話を私なりにまとめてみました。
なお、文中列車時刻や列車番号などはねもねも 様にご協力頂き調べたものです。


 昭和17年春。中学を終えた15歳の私は軍属として満州へと渡った。
 卒業後は海軍少年飛行隊を希望していたのであったが惜しくも不合格。そこで学校の先生に相談したところ「義勇軍も締め切りになってしまったが軍属ならばまだ大丈夫。勤務地は満州。」と言う答えが返ってきた。
 満州と聞いて少々は考えたもののすぐに、大陸も良かろう、と簡単に返事をしたのであった。
 故郷を離れたのが4月15日。多くの人と満開の桜に見送られての出発となった。
 同行3人。一緒に軍属になる友人と軍属募集の任に当たっていた職業安定所の職員で、この職員が下関まで連れていってくれた。
 小山で東北本線に乗り換え、上野、そして東京へ。東京からは乗ったのは21列車。普通列車で10:45発。硬い三等座席で一昼夜。翌日14:50下関着。その日は下関に泊まった。
 翌17日、その年の新人20名程と合流し、職業安定所の職員より満州からきた関東軍の担当者へと引き継がれて22時ごろの連絡船でいよいよ大陸へと渡る。船の名前は金剛丸。釜山には翌朝6時過ぎに着いた。
 連絡していた7列車急行「のぞみ」8:00発に乗り、大邱、大田、京城、と進むうちに夜になった。平壌を過ぎ夜が明ける頃大きな川「鴨緑江」を渡って列車は満州国へと入った。
 明るくなって窓外が見えるようになると一面の雪景色である。「故郷は桜が満開だったと言うのに。これは大変な所へ来てしまった。」と友人と小声で話した。
 18日13:50新京着。釜山からは1530.4kmの道のりで30時間かかり、故郷を出てからは陸海路を伝って3日が経っていた。ここまでの旅費は自己負担で15円であった。
 いったん関東軍司令部に入る。詳しい配属は翌日発表との事で、その晩はみな一緒に宿舎に泊まった。
 翌19日、奉天(潘陽)勤務の辞令が下った。すでに奉天から担当軍属が来ていてすぐに出発。新京~奉天間は304.8km。列車で5時間程かかった。一緒に来た友人は哈爾浜勤務であった。
 配属になった第374部隊は主に満州国内で産出される石炭やセメントを買いつけ、それを各部隊や北部開拓地域に発送するという事務職関係の部隊であって、総勢200名程の内で軍人は上官のほんの一部、ほとんどが軍属であり、隣接して陸軍第237部隊があった。
 仕事は朝8時から夕方5時まで。部隊の仕事である物品の買いつけ発送を実際に行うのは他の人で私は書類さばきばかりであった。
 近くの、と言っても50kmほど離れているが、撫順では石炭の露天掘りが行われていた。無論当時大型機械など無く、鶴嘴とシャベルで掘られていた。その石炭が貨車に積まれてやって来る。それをあちこちに振り分けるのであるが、その労務に当たっていたのは苦人(クーリー)と呼ばれた現地の人達であった。
 仕分け指示は日本語で苦人頭に伝えられた。その人も現地の人であったが日本語に長けていてそこで中国語に訳された。
 陸那珂仕とも呼ばれていた働いていた人夫のその多くが40歳過ぎの人達で、寡黙に仕事を行っていた。
 仕事が終わると寮へと帰る。部隊には30室ほどの独身者用の寮があって、6畳の和室があてがわれた。寮の名前は「淡交寮」。賄い付きで、40過ぎの日本人女性が一人いて3食を供してくれた。昼食も寮が近かったので食べに帰っていたのである。
 買い物も部隊内のシホで出来た。しかし、衣食住に不自由の無い生活でさしたる出費も無く満州にいる間に750円ほどの貯金が出来た。
 給料は月15円。これは当時としてはかなり良いほうであった。
 上司である軍人達はよい家に住んでいた。その頃の奉天はとてもきれいな町で、戦争など何処でやっているのだろうという感じであった。人口は100万ほど。そのうち60万ほどが日本人で商店や映画館なども皆日本人がやっていた。もっともきれいだったのは日本人街だけであって、満人街と呼ばれた別区画に住まわされていた現地の人達のそれはひどいありさまであった。
 翌18年、私は一般事務職から主計大尉付きとなった。仕事の内容は早い話が大尉の使い走りである。勤務時間そのものに変わりは無かったが大尉自身が午後3時ぐらいには帰ってしまうのでその後5時までは仕事が無くのんびりとしたものであった。
 しかし、時には他の部隊への指令書を届ける為の出張もあった。大連や哈爾浜まで行った事もある。その時には警護の為に憲兵が同行する。もちろん守っているのは私ではなく文書である。
 大連や哈爾浜へは鉄道で行った。南満州鉄道である。
 南満州鉄道は、大連から奉天、新京を通って哈爾浜を結ぶ本線とその他の支線からなっていて、他の満州国所有鉄道の営業も委託されており、満州全国を網羅する鉄道会社であった。
 線路の幅は内地のそれより広く、現在の新幹線と同じ物で、流線型の蒸気機関車が最高速度時速120kmで走る「あじあ号」が運転されていたが、私の乗った列車は遅く、奉天から546.8kmの哈爾浜や396.6kmの大連でも行くだけで1日かがりの行程となった。大陸はどこまでも平らだった。街を出外れると行けども行けども草原が広がり所々に柳がぽつりぽつりと生えている風景が続いた。
 やがて主計大尉に勧められて私は仕事後に学校に通うようになった。奉天商業夜間部である。
 大尉からは「これからは学問だ」と進められたのだが、大尉の言う「これから」とはもちろん戦後の事を指すのではなく、軍人としてのこれからである。
 この先軍人になるとしても尋常小学校出の学歴では乙種となり、せいぜいが兵曹までであるが、予科練へ進めば甲種となり大尉にもなれる。予科練の受験資格は中学で5年または実業で4年の学歴が必要であった。
 私の場合は中学を2年で卒業としていたので、実業である奉天商業には3年に編入された。つまりあと2年就学すれば予科練の受験資格が得られるのである。
 学校は街から1里ほど離れた遼河の川岸にありそこまで徒歩で通った。授業は夕方6時から9時半まで。
 仕事が終わると寮へ帰って夕食を摂りすぐに出かける。途中はまばらに人家があるだけ。行きは地平線に沈む真っ赤な夕日を見て、故郷で見た秩父山地に沈む夕日を思い出しながら歩き、帰りは月でも出ていなければ真っ暗な道を歩いた。
 授業を終えて寮に帰って来るのはいつも11時ぐらいになった。早い時間に夕食を摂っているのでとても空腹であったが、そんな時賄いのおばちゃんが部屋にさし入れておいてくれる握り飯がとても嬉しかった。
 もう1つ寮で良かった事は暖房が十分に効いていた、という事である。
 奉天あたりでは冬は-20度にも冷え込むが、寮にはペチカがあり、その為に現地の人が2人雇われていて、いつも暖かであった。しかし、学校に暖房は無かったのである。
 風が吹けば砂の様に飛ばされていく雪にさらされて学校へ行き、かじかんで鉛筆すらまともに持てないほどの中で勉強し、また雪にさらされて帰ってくるのである。だから寮の暖かさはとても嬉しいものであった。
 夜食を摂るとまた自室で勉強をして就寝するのは1時過ぎという日課であったが、凍える手で学んだ簿記が復員後の私の生活に大いに役立ったのである。
 ちなみにこの辺りにも当然夏があり、その気温は35度にも達する厳しいものであった。行軍に出た時激しい夕立に襲われたが、大平原の真中では隠れる場所もない。ただ伏せてひたすら雷の通りすぎるのを待つしかなく腹の下を雨水が流れた。そんな夏も5~8月の間だけで後は寒い季節であった。
 昭和20年3月、無事に奉天商業を卒業し予科練の受験資格が得られた。そこで早速受験。書類には親の印鑑が必要であったが遠く離れた身であったので、大尉が親代わりに判をついてくれた。
 4月に合格通知が来た。その後なぜか時間が空いて6月に「7月までに防府の通信学校に入れ」と指示が来た。
 出発に先だって大尉が「ここで貯めた金はおまえが持っていてもしょうがないから実家へ送金しておいてやる」と言った。
 私は、この先予科練に入るのだから確かに金を持っていってもしょうがないな、と大尉の言葉を好意として受け入れたのであったが、大尉はおそらく「今の戦況からすればこの時期予科練に行くという事はその先にあるのは特攻隊で、おまえはもう実家に帰る事は無いのだ」という思いからの事だったのであろうと思われる。
 しかし、当の私には当時日本の置かれている状況がかようなものになっているとは全くわからなかったのである。
 伝わってくるニュースは連日連勝を告げていて、唯一のマイナス的な事は、山本元帥が戦死した、という事だけで、東京大空襲なども一切知らなかった。
 ちなみに、後日復員して実家に戻ってみるとその金はちゃんと送金されて来ていたのだがすでに米に代わっていた。しかも、送った時には大金であったのにわずか5升の米にしかならなかったのである。

(次の記事へ続く)

 コメント(0)