<ж 22 ж 「寝子」                                ボルケーノ!!>
ж 19 ж 不急の名作                           
                  投稿日時2009/12/20(日) 午前 8:01  書庫鉄道の間  カテゴリー鉄道、列車

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 北海道へ幾度か訪れた事がある。
 しかし、それはより北海道らしさを求めて道北、道東に重きを置くというちょっと偏見に満ちたところがあって、それは図らずも函館~札幌間を特急や夜行列車でさらりと流してしまう結果となった。
 この区間はほとんどが電化されておらず特急列車もディーゼルカーである。
 しかし、それでも大馬力エンジンを搭載した車両なので函館の市街地を出るとぐんぐん加速して大沼付近、駒ケ岳山麓の峠もあっさりと越えると時速100km程の速度で噴火湾縁を駆け抜けた。(これは1980年代の事で今では更に速くなっている。)
 これだけの速度になるといくら防音性に優れている特急列車と言えども床下で最大出力を出し火を吹かんばかりの躍動を続けているエンジンの音が伝わってくる。
 その音を聞いていたらマニアックな気持ちがムクムクと涌き上がって来た。「もっとよくエンジン音が聞きたい。そうだ窓の開く普通列車であれば堪能できる。」と。
 森~長万部、この区間は長大編成の列車が高速で走るのに十分な設備を持った区間である。生憎季節は冬でいくら空いているからとは言え、窓を開ける事はかなわなかったが、その分より防音性が悪いであろう古めかしい車両に乗ってみた。
 特急列車に比べればその出だしはかなり緩慢である。それでも徐々にではあるが速度は上がりエンジン音も高まってきた。
 それがである。時速が60km程に達したところでエンジン音がはたとやんでしまったのだ。
 「あれっ?徐行区間かな?あれれ?」と思っているうちに惰性で走りやがて次の駅に着いてしまった。
 「おかしい。ここは駅間の距離が短すぎたのであろう。次こそは。」との期待も見事に裏切られた。
 2両編成の普通列車は幾台もの車に追い越されながら海岸沿いをトコトコと走る。落胆した私はただボケッと風景を眺めているしかなかったのである。 
 しばらくの時間が流れた。その様な状態で移り行く風景にふと違和感を感じた。それはこの区間は何度か通っているのにそれが見覚えの無い風景だったからである。
 見覚えが無いと言うと語弊があるかもしれない。緩やかに延びる海岸線とそこに点在する建物、遥か対岸に霞む室蘭などは全て同じなのに何かが違う。
 いったい何が違うのだろうとよくよく見ているうちにそれは風景のシャープさである事に気づいた。
 特急列車から眺める風景は全体像こそ変わりは無いものの、列車に近い部分の風景はその高速性ゆえ海岸線の建物は建物にすぎず、打ち寄せる波も白い線にすぎない。
 ところが今見ている風景ではその建物は民家であったり物置小屋であったりで、しまわれている船や漁具も見える。海岸線に打ち寄せる波も白い波頭の下には海底の石が透けて見えている。
 確かに特急列車は早くて快適である。函館~札幌では普通列車の1/3の時間で行ける。しかし、その車窓に見えていた物は全体の大まかな様子、つまり風土にすぎず、移動の速度を落とす事により始めて人の生活感のにじみ出た風景に接する事が出来たのである。
 考えてみればこの逆のことは幾度も体験して来ている。線路際で通過する列車を眺めていると高速で駆け抜けていく列車は列車としての全体像がつかめるだけであるのに対して、トコトコと走って行く列車では乗客の表情までもが見て取れるのと同じなのだ。
 なぜその事に気づかなかったのか。それは幹線沿いの風景は幹線なりの、ローカル線沿いの沿線はローカル線なりのと、それぞれに固定観念ようなものがあって、それを疑いもせず車窓鑑賞の根底に当てはめていたせいであろう。
 これは私に限った事ではなく結構世間一般的な固定観念なのではないかと思う。
 旅の紹介で「新幹線からローカル線に乗りかえると急に風景が鄙びて来た。」というくだりがある。
 しかしよく考えてみれば、昨今の新幹線はそんじょそこらのローカル線よりもよっぽど鄙びたところを走っている。
 これも速度がそれをぼかしてしまうせいであり、ピントが合うまで速度が落ちるのは都市部に入ってから。やがて近代的できらびやかな駅に停まる。
 これでは新幹線の車窓印象が駅や都市部の近代的部分に集中してしまうのは致し方ない事と思う。が、新幹線の場合にはもう一つ風景をぼかしてしまう原因があるように思える。 
 件の普通列車は時には人家の全く見えないような所も通る。しかし、人跡が無いから何も無い、というのは大きな間違い。
 例えそこがあたり一面雪景色であってもゆっくり丹念に眺めると、寒さをより際立たせるような暗く静まり返った流れが有ったり、動物の足跡がいくつも付いていたりするのが見てとれて楽しくも有る。
 ところがここを特急で通過した時はただ単に寂しい荒涼とした原野に過ぎなかったのである。
 新幹線からの眺めはこの原野に通じる物が有ると思う。
 鄙びた、という表現は丸っきりの原野には使われない。ある程度の人の生活感があって始めてそれは当てはまる。
 ところが、新幹線の車窓ではあまりの速度の速さに人の生活の営みの様子をくみ取る事が難しい。人の気配が感じられなければそれは原野である。しかし、自分の乗っているのは文明の最先端とも言える新幹線であり、知識的にもそのあたりが丸っきりの原野ではない事を知っている。それなのに視覚からの情報は原野である。
 そのギャップが走行中の車窓風景の否定的消去となって残るのが都会的印象の風景だけになってしまうのである。
 なおかつ、ローカル線の鄙びた風景に接してなんとなく安らぎを感じるのは、新幹線の車窓から否定できない深層心理に刻まれた原野に対して、人里に無事生還できたという安堵感も存在しているのではないかと思われるのだ。
 なんだかややこしい事をぐだぐたと書いてしまったが、要は、特急や急行でしか通ったことの無い所をゆっくりのんびり通ってみれば新たな発見が有る、という事である。
 ずいぶんと至極当たり前の結論になってしまったがトロッコ列車などのわざとゆっくり走る列車が人気なのもこの辺の理由による物なのであろう。
 新幹線が時速50kmぐらいで走ったらずいぶんと風景が違って見えるに違いない。
 もっとも、この理論を突き詰めて行くと、人は自然な移動速度以上では正しく風景を認識する事が出来ずよって歩いて旅をしろ、という事になってしまうのだが。

 ところで、最近宇都宮線の沿線風景がつまらなく思えるのは昔に比べて速度が上がったから?

--第19号(平成16年4月3日)--

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