<ж19 ж 「美味しい物が食べたい」                           さかき>
ж 16 ж 夜景列車                             
                  投稿日時2009/10/31(土) 午前 9:59  書庫鉄道の間  カテゴリー鉄道、列車

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 夏の終わりはいつも突然やって来る。
 他の季節では、だんだん暖かくなって来たなー、とか、ちょっと動くと汗が出る様になった来たねー、とか、寒さが厳しくなって来たなー、と徐々に次の季節に変わって行く。
 ところが夏の終わりは、ふと見上げた空がやけに高かったり、吹いてきた風が体にまとわりつかずにさらっと流れていったりすると、「あっ、もう秋なんだ」と夏が終わっていた事に気づかされる。
 夕暮れの訪れの早さもそうである。仕事帰りに、「あれっ、暗いな」と車のライトを点ける。今まで平気だったのがある日を境に突然ライトが必要になってしまう。
 もちろん夏の終わりも徐々にやって来るのではあるが、一度秋を思い知らされてしまうとその後どんなに暑い日が来ても、もう夏は終わっているのだ、という気持ちになり、夜の長い季節になった事を少し寂しく思う。
 旅に出ていると、昼の長い季節であれば目的地に着いて夕食を食べていてもまだ明るい。しかし、日が短くなってしまうと、目的地に着く前に夜になってしまい、途中の風景を楽しむ事も出来ない。
 だから夏の終わりは寂しく、つまらないのだ・・・。
 とは限らない。
 日が短い季節にはその季節ならではの雰囲気が楽しめるものがある。それが夜景。
 もちろん、日の長い季節でも夜景は楽しめるのだが、その場合は遅い時間にならないと夜景が楽しめない。しかし短日の頃であれば早い時間からゆっくりと楽しむ事が出来る。夜景を堪能してから夜行列車に乗り込む、なんて事も可能なのである。
 例えば有名な函館の夜景。長日の季節には函館山に登って夜景を楽しんでしまうと、その日のうちに札幌へと向かう列車には間に合わない。しかし、短日の時であればまだ北へ向かう列車に間に合う時間中に堪能する事が出来、更には札幌から道北、道東への夜行列車に乗り継ぐ事も可能で、函館で町の明かりを主役にすべく沈んだ太陽のなし得た技にため息をついた後、最北の地でその日の出を拝めるのである。
 ところで、夕暮れというものは列車で移動中であっても当然訪れる。だんだんと闇に浮かび上がって来る町の明かりを眺める事も可能な訳なのだが、残念ながら鉄道はあまり夜景の名所たる場所を通らない。
 夜景を見るためにはその町を見下ろす場所、またはかなりの距離を置いた場所に立つ必要があるのだが、鉄道はその様な高い所が苦手だし、町を無視する様なルートでは商売にならないからだ。
 その様な運命を背負った鉄道ではあるが、それでもいくつか夜景ポイントがある。例えば甲府盆地を見下ろす中央本線の笹子峠や長野盆地を見下ろす篠ノ井線の姨捨付近などである。だいぶ距離は離れてはしまうが先ほどの函館の夜景も大沼から下ってきた仁山付近で見ることができる。
 しかし悲しい事にその夜景も長くは眺める事は出来ない。列車はその明かりの中心に目的があるのでおかまいなしに歩を進めてしまい、じっくり堪能する暇を与えてくれないからだ。
 結論。列車から夜景を楽しむ事は出来ないのである。
 以上、列車からの夜景の話はおしまい。
 とはならない所がミソ。この様なビューポイントからしか見られないものは夜景のほんの一部にすぎない。
 今まで書いてきた夜景はいわば見られる事を意識して作られた夜景であると言っても良い。「夜景の名所だ」と一度評判になってしまうとそれをより美しく見せてやろうとした町作りが進められるからだ。
 そしてその明かりは大抵白い。白くて強くてピンと張り詰めたような明かりが多い。まさに星をちりばめた様なという形容が当てはまるものである。
 確かに、「はー」とため息をつくような明かりである。
 しかし、鉄道から眺められる多くの夜景はその様な見られる為の明かりではない。それは民家の明かり。ほんのりと赤見がかった暖かみのある夜景である。
 この明かりを見たときの感想は「ほ」である。
 列車に乗っていてだんだんとあたりが暗くなってくる。帰宅客で賑わっていた車内から人影が少なくなってきて、一抹の寂しさを感じる頃に家々に明かりが灯る。
 出掛けていた人を待つ明かりや、家族が一同に集まった明かりだ。
 そこにいる人達には安らぎがあり、それが明かりに乗って伝わって来る様で何ともほんのりとした心地になると同時に自分のその明かりは遥かなる地にあって、旅の空の下にいる事をしみじみと感じさせられるのである。
 この明かりは時間が経つにつれ無くなっていってしまう。人々が寝静まると明かりが消されてしまうからだ。よって短日のころの方がより長い時間この夜景を眺める事が出来る。
 だからといって夏に見られないかと言うとそうでもなく、それどころか夏の方が車窓からの夜景を見るのには好都合なのである。いや、だったというべきであろうか。
 夜、窓の外を見るのに障害となるのがガラスだ。車内の明かりが反射して外が見ずらいからだ。
 昔は冷房のついていない車両が多かったので夏は窓を開け放している事が多く、思う存分に夜景を眺める事が出来た。
 この窓を開け放した列車から見た夜景で私は「真の夜景とは」を考えるようになった。
 その列車は京都から山陰へ向かう夜行列車であった。
 京都のきらびやかな夜景を眺め、二条、嵐山とだんだんと落ち着いてくる風景を眺めているうちに列車は保津峡へとさしかかった。
 そこにある明かりは先頭をいく機関車のライトとかろうじて線路際を照らす車内から洩れて来るものだけだった。
 あとはなにも見えない暗闇である。もう窓の外はなにも見えない。見えないと思っていた。が、そこには風景があった。
 ふと上を見上げると空には星が出ていた。その空の少し下から闇が広がっていた。それが列車が進むにつれて形を変えて行く。
 それが保津峡の夜の風景であった。
 星空の下にあるのは闇ではなく、黒という色をした山々である。更に良く目を凝らせば、単なる黒ではなく、漆黒の部分もあれば星明りに照らされた稜線の光を持った黒もある。
 もしかすると、夜景とは電灯が使われるようになってからはすっかりその電気の作り出すものとされてしまっているが所詮は電景にすぎず、本当の夜景とはそれ以前の人々がめでていた自然の作り出した風景の事であり、「月の名所」と言い表されていたものの事なのではなかろうか。
 以来、明かりの無い夜景が好きになった。
 月明かりの風景はなにも名だたる名所からしか見えないものではない。明かりの無い場所であれば何処でも良いが、今の日本では明かりの無い場所は難しいので月の光を台無しにするほどの明かりさえなければ良い。
 電灯の明かりと違って月の光は風景全体をふんわりとそれでいてリンと照らしてくれる。そんな全ての生き物が活動をやめてしまったようなモノクロの世界を進んで行くと、時折その世界を作り出している者の存在を知らしめる様にきらりと月が光を投げかけて来る。
 家々の屋根やビニールハウスに反射した光である。光と言っても月の明るさはどんなに頑張っても太陽の明るさの7%位しかないので光と言うより輝きである。
 それは電気夜景のように我も我もとでしゃばらず、所々で時には一瞬、時には長く輝いている。反射している物の形でその具合が変わるのである。
 その反射する物が水面だとそれは輝きではなく、くっきりとした月の姿となる。同時に二つの月を見る事が出来るのだが、海や湖では波があって難しい。一番よく見えるのは田圃である。
 ある年の秋長野へ行った。長野の街中は明かりが灯り明るかったが、澄みきった空にはそれ以上に明るい満月が輝いていて周りの山々を照らしていた。
 このあたりは「田毎の月」で有名な月の名所でもある。
 今夜はいい夜景が見られそうだと期待に胸に膨らませて遅い列車に乗りこんだ。
 やがて町を抜けあたりはよい雰囲気になって来たのだが何時までたっても月は空に一つだけ。???と思っているうちにはたと気づいた。
 いくら月の名所でも田圃に水が無ければその姿が映るはずは無く、しかもそれは稲がまだ大きくなっていないうち、つまり春から初夏の間だけである。
 時は十一月。月明かりに照らされた田圃には切株が並ぶばかりであった。

--第16号(平成15年10月4日)--

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 コメント(2)

 アイコン0 昔、釧網本線で釧路へ向かう折、漆黒の湿原の彼方に浮かぶ
釧路の夜景が、何か「宇宙要塞?」のように見えて
やたらと感動した事がありました。  
2009/12/17(木) 午後 8:53  哲ちゃん+Mc169

 アイコン0北海道ならではの夜景ですね。
あ~今すぐにでも出かけたい~。  
2009/12/20(日) 午前 8:13  NEKOTETU