Mahoe Manaマホエ マナーザンゲルと夜想曲ー
#1
潮風誘う木枠の窓辺が、私の指定席だと妹は言う。
港の活気はいつも通り。皆色めき立っている。…が、長閑な田舎町。取り立てて騒がしいことはない。
仄かな果物の甘い香りと、食欲を誘うオリーブオイルの香りが青い空の下に漂う中。
向かいの青い屋根に茶色の猫がのっそり歩いてきて、金色の釦のような瞳でこちらを見つめるも…
のんびりとあくびをし、歩き続けた。それを私もぼうっと眺めた。
誰もが口を大きく開けて、私が見ている事など知らずに楽しそうに喋っている。いつもと変わらぬ、眩しい太陽の下。
雲さえも太陽を避けてこの港に日が当たるようにして…よく下の景色が見えるようにと漂っているようだ。
赤茶の石畳の通りには、沢山のお店や民家が並んでいる。
パン屋もあるし、靴屋もあるし、ケーキ屋も喫茶も道行く毎度お馴染みのご近所さんやら、
旅の連中に気さくに声を掛けて…分別無く、笑いかけた。
広場には1週間前にやってきたフルート吹きの青年の奏でる、美しい音楽が聞える。
それに少々眉を顰める。
窓辺の潮風が窓から下がる茶色のプランターのミントを揺らし、私の持っていた小さな古本のページを“ザザザザッ”と捲る。
気にせず使い古された小さなテーブルに頬杖をついてぼさぼさの髪に風を受けていると、
坂の下から妹の橋姫が紙袋を抱えて歩いてくるのが見える。彼女は、プランターに水をあげているおばさんにつかまり、
おしゃべりをしはじめた。あれから何かを貰って帰るまでが長いのだ。
空は白と青を5:5で混ぜたような綺麗な水色。
建物がこの町はどれも高くないので奥行きがあり、向こうの山まで子供が描いたような水色の空。
山の端は真っ青だ。暖かい風が潮を運び、肌をべたべたにする。
髪も長く窓際に居るとごわごわになる。この町はすぐに鉄が錆びるのでいけない。
しかし、潮と観光客の被害を除いたらとても良い町だ。
家の裏手には湖を囲う野原があるのだが、ちょっとそこまでと言うには遠く、舗装も進んでいないため、簡単には行けない。
本当ならば毎日出向いて野原の木陰でのんびり湖を見ていたい。
あちらに引っ越したいが、妹の橋姫がグルメな上に海が好きなものだからこちらに住んでいる。
「お姉ちゃん、ほら見て。オレンジ貰っちゃった!」
いつの間におばさんの善意に溢れた迷惑を掻い潜って、ここまで来れたのだろうか…。
そう思いつつ、私が黙って窓からドアに振り返りじっと橋姫を見ると彼女は“勿論知ってますよね~…”と言って気まずげに、
しかし嬉しそうに笑う。こう見ると、部屋の中は暗い。物は部屋の中にあまりないが、生活観はある。妹は服に頓着が無いのか、
一昔前の物を着ている。が、彼女には並々ならぬ明るさと聡明さがある。
肩からショールを外し、“兎に角お茶だよね”とお湯を沸かしにかかる。
私と橋姫は、双子だ。
とても似ている。だが、どちらかといえば橋姫は丸顔で女の子らしい。
私は線がシャープで、目つきが悪い。男っぽい顔だち。
妹は慈愛に満ち、楽観的。
私は冷静で、堅実的。
対照的な二人ではあった。愛想の良い妹は誰彼構わず愛されたが、私はそうではない。
静かな一人の時間を大切にする方なので、自分から拒絶しているということもある。
妹はライ麦のパンを焼き出した。
サンドイッチを作るらしい。お湯も火をつけて焼き出す。香ばしい香りが木の部屋に充満する。
「あのね、港の右奥に果物屋さんあるでしょ?おばちゃんがやたらドラゴンフルーツを勧めてくる…」
「んー…そんなのあったっけ?」
私はそう言いながら窓枠に肘をついて、目をアパートの木の天井の隅にやる。
記憶を捜すが、良く思い出せない。というより、そんなおばさんがいたかすらも分らない。
「そこのおばちゃんがねー、お嫁さんがサンドイッチ作ったんだけど、やっぱり暖かくて体に良いパスタがいいって言うから何だかむしょうにサンドイッチが食べたくなっちゃってね~」
「…今の、おばさんのパスタ談義が無駄になったけど?」
私がそう返すと妹は“うーん?”と言ったきり、バジルを刻み出した。分っていないようだ。
時計台が昼時を告げる。そこまで抜群に目がいいわけではないので、港のアーチの先の
大きな町の時計台の針は見えない。2つ、3つ…と、鐘が鳴る。
「バジルはねぇ、畑で取れたんだけどすごく良い出来でねぇ~。良い匂いだよねぇ」
妹は回りに胡椒が沢山付いているボンレスハムを割と分厚くスイスイ切っている。
良い香りだ。確かに。
「トマトはね~、まだ青かったんだ。あと少ししたら良い感じなんだけどねぇ」
「…広場のフルート吹きとは良い感じなの?」
ぼーっとしつつそう訊ねる。時計台の針はどうやら12時のようだ。
「やだなぁ。そんなんじゃないってば」
橋姫はそう言って照れながら笑った。いつだったか声を掛けられていたのを見たのだ。
私はというとそれを横目で見ながら家路へと帰り、妹が帰って来たときに散々に言われた事がある。
フルートを持っているということは、そこそこお金を持っていると考えられる。
そんな人から田舎町の田舎娘が声をかけられるなど、本当にシンデレラストーリーだと言うのに。
「浮橋は?」
妹は私のことをそう呼ぶ。何故かは分らないが、いつも名前呼びなのだ。
「…恋人は埃被って前の家と共に燃えたねぇ」
前の家は大きかった。
父が軍人で、兵士から敬礼を受けていたのを覚えている。母はそんな父に嫁いだ。
どちらも炎に巻かれて死んだ。随分と前の話だが、昨日のことのように覚えている。
兄もいたが、敵地遠征の時に恐らく殉死したと思われる。骨は帰ってきてない。
それも同時期だ。親族も沢山居たが、父と母しかり。あの日炭となった。
小さい頃からピアノを弾いて暮らしていた。妹が遊ぼうと寄って来ても、母がお茶にしようと言っても、なかなか止めなかった。
ピアノだけがとても好きだった。けれど、燃えてからどうでもよくなった。
何だか一気に色々ありすぎて、本当にピアノがあったかすらもうろ覚えな感覚。
家で小さなコンサートを良く開いていた。それに比べて橋姫は兎に角何でもこなした。
楽器も、お茶も、歌も、料理、礼儀、話術に伴う知恵…。彼女は勿論努力を惜しまなかった。
だが、手広く全てを私よりも短期間で彼女はこなした。
「恋人…また作らないの?」
「もう興味ないな」
と、いうのに彼女は駄目な私を尊敬しているらしい。私は密かに溜息を吐いた。
妹は農業をし、私はバーで働いている。
私と妹は体が頑丈で、少々肩幅があり、身長はこの町の女の中で2番目に高い。
ほぼ同じ背丈だが、声の高さやら思考やらは真逆であった。
「お姉ちゃんは夜もあるんだから、さ。ご飯食べて」
軽く焦げ目をつけたため、香ばしい香りのライ麦パンに黄身の分厚い、こんがり焼いた卵。艶めく桃色のボンレスハム。更にはバジルにルッコラ、オリーブオイルに絡まるみじん切りの透明なたまねぎが垣間見える。
「私って、何が得意なんだろうね?」
私が窓からテーブルに体を向け問う。ライ麦パンを持ち上げると指先が温い。
「運動神経いいよね。前にほら、テーブルクロスを窓から外に叩いてた時さ~、ね?雀叩き落としたもんね?」
「…」
私はサンドイッチを口に入れようとし、一度止まると、数拍置いてから“じゃくり”と齧った。
卵の塩が固まっている箇所があり、一口目はしょっぱかった。
昼食を取り終わり、コーヒーを飲んでいるとドアを軽く1回叩いただけで郵便屋さんが暢気に顔を出す。ドアの建て付けが少々悪く、木戸が軋んだ。だが、私以外誰も気にしない。
「おーい!橋姫!お!いたのか浮橋!手紙だ!」
いたのか、など。失礼な。と思うが毎度の事で、肩を軽く竦めてコーヒーを飲む浮橋。
橋姫は駆け寄り手紙を貰っている。床の板も軋んでいるがやはり私以外気にしないようだ。
「船乗りのあの青二才より、俺のほうが男前だろ?橋姫」
歌うように紺の局員の制服を着たおじさんは言い、橋姫は手馴れた感じでお膳立てをした。いつもの風景である。
数分後にはおじさんも違う民家に行くべく、暢気に行ってしまい、橋姫は手紙を見つつ帰って来た。
「ダイレクトメールね」
と、陽気に肩を竦めた。
「実に平和だ。君に手紙が届くと色々な人が大変だからね…」
「大げさだよ。この前はちょっとおじさんが破こうとしただけで…。そんなことより、浮橋の方が大変何じゃない?夜の仕事だし…」
いや、そもそも近寄る男がいないのだが。と、本を窓辺の戸棚から取り出しつつ思う。
椅子に座る位置は変えずに、ぱらぱらとページを捲った。雲の陰がゆっくり本に被さる。
「双子に違いなんてある?そう変わらないって。給料良いのは分かるけど…もう辞めなよ」
カモメの声を聞きながらも目当てのクローバーのしおりを外し、テーブルに置くと、新聞が。今の郵便やでやっとこの家人は自分の家のポストを見たらしい。
-ザンゲル卿、ロップス進攻-
と、書いてあった。
ザンゲル
それは、自分たちの国を滅ぼした憎き国の名前であった。
その魔の手が、すぐそこの国に伸びてきている。
その通知であった。