恋シェのためのその②は『ロミオとジュリエット』
※劇団四季『恋におちたシェイクスピア』をより楽しむために、シェイクスピア関連の作品を読んでいるyo
恋シェのためのその③
『ハムレット』
小田島雄志訳→松岡和子訳→福田恆存訳の順に読んだ。
初めて読んだ福田恆存訳は、これまでに読んだ小田島訳・松岡訳と比べて圧倒的に改行が少ない。日本語の文体としての流れが大切にされているように思える。
そのため文字がびっしり詰まっているので、本を開いたときはちょっと怯んだ。
古めかしい言いまわしが多い印象(とくにクローディアスとポローニアス)。
ト書きが詳細で新たに知る状況がいくつかあった。
小田島訳と松岡訳は、改行が多い点は共通しているが、その位置や意図はそれぞれ異なっているように思う。
小田島訳が読みやすく感じるのは、改行位置にも理由がありそうだ。
小田島雄志訳(文庫)
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図書館で借りた。1977年刊行B6判のソフトカバー本。背表紙の原型は跡形もなく修復されていて、だいぶ年季が入っていた。
漫画本ではよく見かけるサイズだが、文芸書でこの判型はあまり馴染みがない。価格が1,100円、当時としてはかなり高価だったのでは…
同じく小田島雄志訳(全集)

上記と同じ『ハムレット』が収録されている白水社の『シェイクスピア全集1(1973年)』。
図書館で現物を確認したら、ハードカバーなだけあってしっかり原型をとどめていた。
定価3,800円。
聞くところによると、『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』というドラマに、この全集〈全7巻〉が“モノ質(人質の物版)”として出てきたとか。
松岡和子訳
福田恆存訳
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美麗なカバー装画。
喪服を纏ったハムレットとヨリックの骸骨。どちらも生と死を暗示するもの。
以下、引用は
『シェイクスピア文庫2 ハムレット/小田島雄二訳、白水社』、
『シェイクスピア全集1 ハムレット/松岡和子訳、筑摩書房』、
『ハムレット/福田恆存訳、新潮社(新潮文庫)』
より。
To be, or not to be: that is the question.
(第三幕第一場)
このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。(小田島雄志訳)
生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ。(松岡和子訳)
生か、死か、それが疑問だ、(福田恆存訳)
説明不要?シェイクスピア作品の中で最もよく知られた一節といってよいかもしれない。
復讐を決意しながらなお行動をためらうハムレットが、自身の存在そのものについて悩み逡巡する心情を独白する台詞だ。
独り歩きしているこの台詞から受ける印象のおかげで、『ハムレット』は哲学的な命題を捏ね繰り回す小難しい作品であると思っていた。
『ロミオとジュリエット』もそうだったが、有名すぎて知っているつもりになっている作品ほど、実際に読んでみるものである。
読み終えた今、自分なりに思う内容をまとめてみると、「青年ハムレットが思索と現実の間で絶えず揺れ続け、矛盾と葛藤を抱えながら生きる様を描いた青春物語」といったところだろうか。
ハムレットのことはそこに生きるひとりの人間と捉えていただけで、哲学的な命題を探求する対象とはまったく考えずに読んでいたように思う。
ハムレット、30歳説
…という説があるらしい。
私は19歳のイメージで読んでましたけど。
確かに、「墓掘り」の場面(第五幕第一場)の会話をそのまま正とすると30歳と読めるが、この点については小田島氏があとがきの中で一刀両断していて面白かった。
墓堀りとのやりとりから逆算して、ハムレット三十歳説があることはたしかだが、それはシェイクスピアによくある杜撰さと考えていい。
シェイクスピアって杜撰なんだ(笑)
細かい辻褄が合わないのは、シェイクスピアにはわりとよくあることなのだろうか?
…と疑問に思っていたところ、新潮文庫巻末に収録されている論考(「シェイクスピア劇の演出」福田恆存)にも、違うアプローチから“辻褄の合わなさ”について述べられている部分があった。
劇的効果を優先するため、細部の時間や年齢設定には矛盾が生じることがわりとあるようだ。
なお、小田島氏のあとがきには膝を打つ部分が多かったので、現行のUブックス版に掲載されていないのが残念。
たとえば、上記引用の続きでこのように述べている。
それより彼がヴィッテンベルクの大学生であること、また父の亡霊や友人たちにたいする言動から、彼に青春のイメージを感じとるほうが自然だろう。
これには激しく同感で、実際、墓掘りの場面を読んだときにはずいぶん混乱したものである。
母親が再婚することへの反発なども、明らかに思春期のそれと見える。
もし、ハムレットが30歳だったら?
それはもう、まったく違った筋書きの、まったく違う物語になっていたに違いない。ひょっとしたら喜劇になっていたかも。
ホレイショーは、カオスの中のオアシス
物語には、ハムレットの友人と呼べそうな人物が数人登場する。
その中でも、学友のホレイショーは、全方位を警戒するハムレットが唯一、心を許していたと感じられる存在だ。
極度の人間不信に陥り、自分自身のことすら疎んでいるハムレットが、ホレイショーのことだけは不思議なほどまっすぐ信頼している。
作中ほとんどの場面において「演技」しているハムレットだが、ホレイショーと向き合うときだけは、素の姿が垣間見えるように思う。
一方で、まったく信用されていなかったのがローゼンクランツとギルデンスターンである。
王妃の台詞から察するに、彼らはハムレットの旧友のようだが、二人との会話には初めからどこか距離と不信の壁がある。
最終的にハムレットは彼らをクローディアスのスパイと見なし、奸計に嵌めて死に追いやる。
その決断の早さには少なからず驚かされた。
ハムレットのことを「復讐をためらう優柔不断な男」と見る向きもあるようだが、十分行動的ではなかろうか。
ローゼンクランツたちに向ける為政者らしい冷酷さと、ホレイショーに見せる年相応で自然な姿が対照的。
オフィーリアの自由の在処
学術的には、ハムレットの舞台は中世末期(おそらく13~14世紀ごろ、日本の鎌倉時代から室町時代)のデンマークと考えられているそうだ。
シェイクスピアがこの作品を書いたのが16世紀末(日本の戦国時代末期)であり、シェイクスピア時代の社会観が中世風の舞台に投影されていると考えられる。
16世紀のイングランドでは、女性は基本的に男性(父・夫・兄など)の庇護のもとに生きる存在であり、家父長制のもとで自由は制限されていた(身分や家柄でその度合いに差があった)。
そんな中で、ハムレットから思いを寄せられているオフィーリアに対し、父のポローニアスと兄レアティーズは「王子との交際などやめておくように」と忠告する。
オフィーリアは異を唱えることもなく、ただ素直にその忠告を受け入れる。
初めて読んだときは、女性を取り巻く社会的背景のことなど頭になかったので、オフィーリアの言動をまったく理解できなかった。
現代的な感覚で読んでいるので、「うわ、父と兄、超余計なお世話」、「オフィーリア、なんでもうちょっと強気になれないの?」などと思ったわけだ。
だが、オフィーリアにしたら父や兄に従うのは当然のこと。
いろいろあった末、ハムレットから贈られたラブレター、プレゼント、口説き文句まで、クローディアスとポローニアスの前で明らかにしてしまうのだ。とんだ羞恥プレイである。
…まぁ、それはさておき。
さておけないほどドン引きしたんだけどね
その後オフィーリアは、ハムレットに拒絶され、父を殺され、そして正気を失ってしまう。
再び登場したとき、かつてのように言葉を慎み、従順で貞淑なオフィーリアの姿はもうなかった。そこにいたのは、好きな言葉で語り、好きな歌を口ずさむ自由な姿の彼女だ。
社会の抑圧から逃れ自由になれた先が狂気の中なのは皮肉である。
正気を失い自由になったその姿は痛ましいが、美しくもある。それがオフィーリアの魅力なのだろうと思った。
オフィーリアに比べると、ジュリエットは強かった。
どちらの作品にも、その当時の価値観に加えシェイクスピア自身の価値観も少なからず反映されているのだと思う。
そう思うと、女性に対する固定された価値観に縛られないシェイクスピアの柔軟さが見えてくる。
これから読む作品にはどんな女性が登場するのだろうか?
こういう人、わりとよくいる。
クローディアスの臣下であり、オフィーリアとレアティーズの父親でもあるポローニアスが、フランスへ旅立つレアティーズに長々と“人生訓”を説く場面がある(第一幕第三場)。
その一部がこちら。
・金は借りても貸してもいかん。
・何より肝心なのは、己に誠実であること。
(松岡和子訳)
(原文)
“Neither a borrower nor a lender be.”
“This above all: to thine own self be true.”
ほかにもいろいろとあって、どの教訓も「なるほど~」と思えるもの。
ただし、内容の多くは当時すでに広まっていた通俗的な格言や処世訓で、ポローニアスの長いお説教はそれらの言わば寄せ集め。
息子に博識ぶったアドバイスをしてしまうところは滑稽かもしれないが、わりとよくいる普通のオジサン、オジサンに限らず誰しもやりがち、という気もする。
後々、ハムレットにうっかり刺し殺されてしまうのだが、そのときの言われようが酷い。
この大臣も
いまは静かに口を閉ざし、重々しい顔をしている。
生きている間は軽々しくしゃべる阿呆だったが。
(小田島雄志訳)
うわべばかり見てその奥を知ろうとしないところはあったので、ハムレットからするといささか俗っぽい人物だったかもしれない。
でも、息子のレアティーズからは慕われている様子の俗物ポローニアス、私も案外、嫌いじゃない。
巻末には ✕ ✕ が詰まっている
※敬称略
各文庫の巻末には、訳者あとがき、中村保男の解説(新潮文庫)、河合祥一郎の解説(ちくま文庫)などが収録されていてかなり読みごたえがある。ハムレットへの愛と情熱が詰まっていると思う。
新潮文庫(福田恆存訳)の巻末には、先述した論考「シェイクスピア劇の演出」(福田恆存)が収録されている(下記(注1)参照)。主にシェイクスピア作品を演じる役者のあり方について述べられているが、観客の視点としても参考になる点が多くあった。
たとえば、舞台に合理性や辻褄を追い求めすぎると、“劇”を楽しむための幅を自分自身で狭めてしまうことになりかねないな、と思ったり。
あるいは、「劇場からの帰り道はなんとなく元気になっているのはなぜだろう?」という、常々疑問に思っていた謎の答えらしきものが掴めそうな気がしたり。私が足を運ぶのは専らミュージカルだが、「劇中人物と同様の情熱を体験する」、「各場各場の展開にしたがって、刺戟と浄化の過程を味わう」という点が謎を解決するヒントなのかなと思う。
論考の「三 テンポについて」という項では次のように述べられている。
正直な話、日本語のシェイクスピアは、役者の手にわたるまえ、すでにその美の九十パーセントは死んでいます。
英語は門外漢ながらも「それはそうなのだろうな」と腑に落ちる。
それでも、日本語訳を読んでハムレットの魅力を知り、日本語で読んだからこそ得られる新たなインスピレーションがあるのではないかと思っている。
おわり。
お読みいただきありがとうございました!
(注1)の論考は『演劇入門 増補版(中公文庫)』にも収録されている。初刊・初出はそちらに記載がある。なお、中公文庫は旧仮名遣いのまま、新潮文庫は現代仮名遣いになっている。
https://www.chuko.co.jp/bunko/2020/08/206928.html




