私は中学生頃から、オシャレしないように
女性らしさを封印して生きてきたわけですが
そういうことをブログに書いていて
父に思い当たりました。
父は、一度もジーパンを履かずに
生涯を終えました。
ちょうど父が若い青春時代を生きていた頃
ジーパンが流行ったのだと思います。
でも父は、
断固!ジーパン拒否だったようです
父の死ぬ10日前、お見舞いに行った際に
父が詠んだ川柳の話からジーパンの話になり
その時に
「実は一度だけ履いたんだ」
と話した父。
「えっ、そうなの⁉︎」と驚いた私ですが
後日母にそのことを話すと
「そんなわけないじゃない。ジーパン履くくらいならステテコで銀座を歩くって言ってた人だよ」
と。
持ってないと履けないしね。
服を管理していたのは母なので、
「そんなわけない」というのは
間違いないんだと思います
たぶん、
父がジーパンを一度だけ履いたというのは
嘘だと思います。
でも、『嘘』というより
父は痛みを感じないように
医療用のモルヒネのシールを貼っていたので
現実と夢の区別がつかないような
ふわふわした意識だったと思うのです。
その状態の中でも、
結構意識がしっかりしていて
話ができる貴重な限られた時間でしたが。
なんていうか
本当は父は一度くらい
ジーパン履いたらよかったかな
なんていう、
心残りがあったのではないでしょうか
だから、ふわふわした意識の状態で
気持ちの中では
「一度ジーパンを履いた」ことに
なっていたのかも。
今、自分が、このまま
カラーやパーマをかけずにいたら
後々後悔するかも、という気持ちに
辿り着いた時に、
父のジーパンは、
意地を張っていたけど本当は
履きたかったものなのかもしれない
と思ったのです。
『後悔』があるとしたら、
「ジーパンを履かなかったこと」
そのものにではなく
「意地を張り続けたこと」に対する後悔
なんじゃないかな
そうだとすると、その気持ちがよく分かります
意地張って「履かない!」って言い続けた手前
履こうものなら、周りから
「どういう風の吹き回し?」
「どうしちゃったの?」
「何の影響?」
「こんな日が来るなんて」
って色々言われて注目されるでしょう。
それを想像すると
小っ恥ずかしくなりますよ
それで
後に引けなくなっちゃった
私のボーイッシュキャラ定着、と
よく似ています。
親子ですね、やっぱり。
私が髪の毛を染めて女性性を解放し
思春期をやり直すことが
妊娠に繋がらなくても
この一歩を踏み出したことは
人生において大きな意味を持つものと
思っています。
