母、75歳の誕生日。
学校から帰ると手作りのおやつが待っていて、
寒い夜には夜中に毛布をかけにきてくれて、
遅くまで勉強しているとココアをいれてくれて、
勉強しなさいなんて言われた記憶がない、
全世界的にみてもトップクラスに優しい母です。
けど、わたしは不満でした。
わたしのことばかりではなく、
もっと社会的な生きがいを持って輝いてほしい、
そう思っていました。
また、期待をしてくれないことを寂しく感じてもいました。
受験のストレスでくたくたになっていると、
「大学行かなあかんの?」
社会人になりたてでキリキリしていると、
「家事手伝いでもええねんで?」
なんでわたしが頑張っているのに励ましてくれないんだろう?
「葉子ならできるからがんばりなさい」
そんな言葉をかけてもらいたかったのです。
先日、仲良しのお母さんが急に亡くなって、
お葬式から帰ってきた夜、
ふたりでお母さんについて話をしました。
彼女のお母さんはとても敬虔なクリスチャンで、
困っている人がいたら、娘の用事よりもその人を助けることを優先されたそうです。
そうそうできることではありません。
とても立派な母だと思うけれども、もっと自分をみてほしくて寂しかった、そう話していました。
彼女とわたしは、正反対の願いと寂しさをお母さんにもって生きてきたんですね。
母が娘に教えてくれることの大きなひとつは、こんなにも愛してくれる人でさえ自分の欲しいやり方で愛してくれるとは限らない、ということなのでしょうか。
そして頑張れと言わない母のおかげで、全ての選択は間違いなく自分でしたと確信できる人生を歩めています。
そんな夜、母からわたしに間違った教育をしてしまっていたと、告白が。
パンツを履くときは、足の履き口もいっしょに掴んで履くのが正しくて、ウエストの部分のゴムだけを掴んで履くのは謝りだったと(!)
お母さん、今さらそんなー。。