病院の先生からは

「手術はできません。抗がん剤はできますが効果があるとは限りません。」


診察室で泣き出したのは父だった。


「お父さんが泣くもんだから私は泣けなくなっちゃったわよ。」


何度も母がこの話をしてくれた。


「ママ(父だけがいつも自分のことをパパ、母のことをママって呼んでいたな)抗がん剤して後5年でも生きられたら良いじゃないか!」


抗がん剤治療は新薬でコンピューターでランダムに決めた、今後の患者さんに役にたてればとも言っていた。


父はストレートに余命告知した医者を恨んだが後に、受け入れこれでよかったと言った。





抗がん剤治療開始



私は母に今ある中で一番の良いことをしてあげたかったから、癌に効くというものはいくら高くても買いに行った。病院で着るパジャマやスリッパはデパートでとっても素敵なものを揃えた。でも、こういうことはあまり役に立たない事も分かっていた。


「あなたお姫様みたいに大切にされてるのね。」

病室のおばさんに言われた言葉

でも抗がん剤でボロボロになった母はいくら私がかわいいパジャマを用意してもお姫様からは程遠いい姿になっていった。むしろ余計に私の胸は痛んだ。だって、母に欲しいものはそんなんじゃないから。



そんな中祖母が亡くなった。6年だったかな。長い闘病生活だった。ずっと病院だった。


母は病室で泣き崩れ何度も手を合わせて「お母さんの葬儀にも行けないダメな娘でごめんなさい。」と謝り続けていた。


父と私で急いでお通夜とお葬式に向かった。



抗がん剤治療が終わりもう退院しなくてはいけなかった。効果も出ず、ただ母は苦しくボロボロになっただけだった。

今思えば、この苦しい入院の時間を母の好きなことに使ってあげれたのではないか?治療して治してあげたかったのは私たち生きてる側のエゴではないのか。


そんな中一人の病院の先生が結婚するというニュースで病室はおめでとう!の声が飛び交った。その時にとても不思議な感覚に陥った。

癌研はドラマのように医師が大勢で問診に来る。研修医も連れて。いちいち一人一人エモーショナルに接していたら医者も病気になるだろう。でもとても冷酷な、母をものとして扱うような感じを受けた。

私の一番大切な母を粗末に扱われた感じがすごく悲しかった。


退院の日、みなさんに「おめでとう」

と声をかけられるが、何もめでたくはなかった。この病院は治療を目的として、治らない方は去るしかないのだ。とっても後味の悪い退院だった。



父は母が家に帰ってくる準備で介護ベッドをレンタルした。

私が家に帰ると父が小さくなってその介護ベッドの中で寝ていた。

「お父さん?ここで寝てたの?」

「パパリビングにベッド置くことにしたよ、ママもその方が寂しくないだろ。」


偉大で仕事がバリバリできた尊敬する父親がすっごく小さく丸まって介護ベッドにいる姿に胸が引き裂かれた。



母の体調は悪かったが、家族全員で福岡に旅行に行った。母のやらなければいけない整理関係。

家族で福岡に帰ったのは何十年ぶりぐらいだった。

ホテルに泊まり夜景が東京に比べると見窄らしくてなんかとても悲しい気持ちになったのを覚えている。

父と姉がお酒を飲みに行き私は母と部屋に残った。

テレビではフォレストガンプが流れてて、母はシャワーを浴びに行った。


 その時



“後どれくらいの母は一人でお風呂に入れるのかな?”


と思った。


福岡ではどうしても食べたかった牧のうどん。

私にとって家族の味

色々時間が詰まりすぎてて結局行けなかった。


「今回は行けなくてごめんね、でもあなたはまた来れるから次回食べてね。」


もう母とは福岡に来れないし、少しづつ最後を見せられてるようで胸が痛かった。


「えー、残念!でもお母さん気にしないで!」

心の中の悲しさを出したら母が余計悲しむと思ってわざと明るくした。



母の髪の毛が抜け始めた。


母に髪の毛は私を出産後激減りし、常に気にしていた。カツラも持っていた。


でも


「お母さんの髪の毛薄いって気にしていたけど今思えば沢山だったわね。」


と母は言った。


帽子を被り始めて、家の中ではいらないよと言ったが「お父さんの前では可愛くいなきゃ。」って言ってた。


私の作ったお味噌汁が美味しいって涙浮かべた。


「お母さんね、病気になって残念だけど今までそれぞれ忙しかった家族が常に集まるようになって幸せだな。」


って言った。




そうだね、お母さん。

普通の毎日は本当はとってもとっても幸せなんだよね。