久しぶりすぎて文字を並べることに

色々と不器用になっている今この瞬間。


生きておりますし、生かされております。

出雲のゲストハウス「神楽荘」の計画も

出雲の皆様や相方の温かいご協力のお陰様で

来年2月には建物も完成して完璧移住です。


とりあえず相方には先に行って住んどいてって

今年5月から住んでもらってますけども。

私は半出雲、半神戸の生活です。


本当に出雲の皆様には何から何まで

優しく温かく受け入れていただき、

ご協力もご支援もご指導もいただき、

今まで以上に出雲が大好きとなり、

そして出雲の皆様が大好きになっています。


神戸の家族、全ての友人、関わってくださる皆様も、

この相変わらずでどないしょうもない私に

相変わらず優しく接して色々と与えてくださって

ますます大好きになっております。


幸せです。ありがとう。


コロナやら、戦争やら、物価高やら、インボイスやら、世間はあれこれありすぎですが、

風も涼やかに秋めいて、空の雲は高くなり秋の空となり、金木犀が香り始め、紫蘇の実は美味しく、自然は絶え間なく自然の営みを見せてくれる。


その自然の姿の中にこそ、命があるものが生きることの本質があるような気がする。


足るを知り、生み出した足らぬを減らせば

幸せなんてすぐ目の前にあるというのに

この時代の人間というのは強欲なもんだと

そよぐ風に葉を揺らす長き時を生きる樹々に

揶揄われている様な気さえもする。


自然はただただ偉大だな。


私が「私」としてここに在るのは

私が「私」としてここに在るということを知る

誰かがいてくれるからでしかない。


ただ私の命がここに在るというだけでは

そもそも「私」は存在していないのだ。


だから目の前に存在する人というのは

誰しもにとっても、どんな性質の人であっても、

「私」という存在をあらしめてくれる

ありがたい存在だなぁと思うばかりです。


「私」のことを嫌う人がいてくれるから

「私」はここに嫌なやつとして存在出来るし、

「私」のことを愛してくれる人がいるから

「私」はここに愛される者として存在出来る。


私は人に嫌われるのは別に嫌ではありません。

なので私自身は嫌われても悲しくはなりません。

「そういう存在として成り立たせてくれるのか」と感謝はします。


思い通りに打ちのめし甲斐のないやつで本当にごめんなさい。


その誰かの嫌いという感情に振り回されて生きられるほど、私は繊細に生きることはできない質のようなので諦めていただければ幸いです。


その分、愛してくださる方の優しさや温かさはものすごく心に響きます。

じんわりじんわり心に響いて、その想いのもたらす振動がじんわりじんわり心を温めてくれて、

そしてその方が今ここのこの世に存在して出会ってくれたという喜びに心が躍ります。


この目の前に存在してくださる方は

実は神様か菩薩様の化身ではないかと思うくらい

その存在そのものがありがたいと思います。


血のつながりがあるないに関わらず、

存在のつながりがあるという関わりがある。


そのつながりは無限であり、果てなどなく、

この人のその向こう側の人、そしてその向こう側にある人…というふうに、

つながりを思うとすべての存在に感謝が生まれる。


関わりがなくとも、なくなろうとも、

微かにでもどこかでつながりがあるとしたら、

「何があったか」や「どう思っているか」などちっぽけなものでしかなく、

今どこかで存在をあらしめる存在として互いがどこかで成り立たせあっている存在であることが、

互いの今を生み出しているということになるからありがたいものです。


直に関わり合い続けるも、

直の関わりが途絶えるも、

互いがそうでなければそれは成り立たない。


どちらかだけの在り方では

それは成り立たないのだから。


血のつながった家族と、血をつなげあっていく者、

そして血のつながらない者同士の、

「存在する」という共通点として得られる、

大きな一つの家族のような団体、

世界とはこの地球に生きている私たちすべてが所属する所。


生きてるだけで苦であり、諸々あれこれつらいのはつらいからできるだけお互い労わりあい、

生きることの苦から互いを救い合えるように生きていけたら奪い合うことなど必要なくなりますのにね。


物質社会が行き着く先がどんなものであるか、

その為に本質的なものが見えなくなってるというならば

物質社会のとどのつまりを否応なしに見せられて、

人として豊かに生きることの本質を取り戻させられるしかないのか…と思ったり。


そんな遠くない未来にそうなるのかもしれませんがね。

どうなるかはなってみなきゃわからんのが実際のところですし。


人の根っこは在り方に繋がる。

特別な才能も能力もいらない。

どんな存在も凹凸があり、得て不得手があり、

ちゃんと支え合わねば生きていけない仕組みになっている。


そのことがどれほどありがたいことなのかということ。


何者にもならなくとも、そこにいて誰かにその存在を知ってもらえていたなら、

その人はその人の持つ何かを誰かに手渡している存在であり、

その人を存在たらしめる存在としてそこに在るのだからそれだけで素晴らしいこと。


私はそもそもが無であるなぁと。


その無を無としても、在るとしてもあらしめてくれるのは、

そこに存在してくれているすべての存在だなということです。


ありがとう。


終わり。