
http://s.ameblo.jp/nekono-ruby/entry-12048770433.html

私はね、私でしかないので大嫌いと思われるのも、大好きと思われるのも、両方あって当たり前だと思うし。
大嫌いになられたくてそう振る舞ってる訳でも、大好きと思われたくてそう振る舞ってる訳でもなくて、私は私で生きてて。
その私を見て大嫌いか大好きかは、その人達の自由でいいし、大嫌いと思う何かがあるのは「私」ではなく「その人」の中にある「何か」でしかありません。
同じ事を伝えたとしても、受け取る側の心一つで「大嫌い」と「大好き」に分かれるんすよ。
それを私が先読みして、何か私を作って合わせる、もしくは好かれるように振る舞うのは、ちょっと違うと思うから。
私は私として「大嫌い」と思われる対象であってもいいと思ってるし、
「大好き」と思われる対象であってもいいと思ってるし、
それはどちらも同じ「感情の対象」になってるだけです。
たとえどう思われようと、私は私が大好きだし、嫌う事はない、嫌われることも好かれることも同じくらい大切な反応だと思ってるという根っこがあります。
何で私を大嫌いだと思うのか。
それを私側に理由を持ってきたら、それはそれでその人は納得もするし、こきおろせばこきおろすほど清々しく気持ちいい気分になるかもしれません。
けど、それを言う根っこがあるのはその人自身だから、私をどれだけ大嫌いな上で批判しようがこきおろそうが、それはその人の中から生まれ出た、その人のものです。
私はそれをそういう捉え方もあるよねって認めるし、だからといってその人を嫌う事はありません。
めちゃくちゃ、承認してるからこそ、それさえ受け取るし、そうかーって納得して感謝の言葉を言う事すらあります。
大好きと言われるのと、何ひとつ変わらないと思いますから。
私を嫌えば嫌うほど、その人はその人の中の自分と向き合うでしょ?
それでいいんじゃないかなぁ?って感じます。
単にその人の眼の前に現れた「嫌悪の感情の対象」「好きの感情の対象」、その人が引き寄せた「その人そのものが目をそらしたい何か」「その人そのものが愛してる何か」を写し出す鏡として私が目の前にいるだけで、
私は私で、金谷知砂という存在で、それ以外、実は何でもないのが事実です。
んでね、私の事を大好きだと言ってくれる人と、私の事を大嫌いだと言ってくれる人の、
「好き」と「嫌い」の部分がね、実はまったく同じ所であるのが面白いなぁと思っています。
とある人は私のその部分が大嫌いなんだけど、
とある人は私のその部分が大好きと思うんです。
私は私である中で、私をどう感じるのかは相手の気持ち、心の中の何か。
信頼して、まるっとこのままで私は存在しています。
大嫌いも大好きもちゃんと感じて認めている私だからこそ、相手の大嫌いも大好きもちゃんと感じて受け止めます。
大事なのは、その人がどちらの感情を私に抱いたとせよ、その人そのものが、自分をどれだけ本当は信じて大切に愛しているかという事に気がつくかどうかだと思ってるから。
私はただの感情の対象であり、きっかけです。
私はどうであれ、女神であり、愛そのもの。
それを私が私に対して信念でそう思ってるのを、「大好き」「大嫌い」の両方を伝えてくださる時に強く感じさせてもらっています。
しぶといぜ、私は(ノ∀`)笑
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