夏休みだというのに、悲しいくらい暇を持て余しているななこXです。


今日は、兄が義姉とともに実家である我が家へやってきました。


そのときに、お土産として持ってきたのが




少し歴史の話を・・・・


徳川家康浜松城に登城したのは1570年、まだ年若い29歳のことでした。

その後、秀吉から江戸への改封を命ぜられるまでの17年間

家康浜松で過ごしました。

その後江戸幕府を開いたことや、家康のあとに浜松城に入った大名達がみな

それなりの禄を与えられたことから、出世城とも呼ばれるようになりました。


しかし、家康浜松にいた17年間、決して順風満帆に出世していったわけではありません。

特に、家康の天下取りに致命的にもなりかねなかったのが、1572年三方原の合戦です。

武田勢に追われ、命からがら城に帰った家康は、そのときのぶざまな姿を絵師に描かせ、

二度とこのような思いはすまいと誓ったそうです。


その三方原の合戦にまつわるいくつかのエピソードがあり、

それが現在の浜松市の地名となって残っています。


武田軍に追走された家康軍が三方原の崖に布をかぶせて橋と見せかけ、

追ってくる武田軍を突き落とした・・・・という布橋。



それから、本陣へ逃げ帰る途中、お腹を空かせた家康がある茶屋に入り

そこであんころ餅を食べたという ・・・・小豆餅。


ところが、武田軍が迫ってきて、代金を払わずあわてて逃げたところ

茶屋の老婆が追いかけてきて代金を払わせたという・・・・銭取


そう、兄が持ってきたのは、その銭取りの名を取ったお菓子でした。

ちなみに、この菓子舗は「あおい」といい、兄の住む町も「葵町」です。 


実際には、布橋あたりは三方原の崖っぷちではなく、

少し西に行ったところが確かに三方原台地の一番南端になるのですが、

布の橋を渡せるような地形のところではありません。


また、合戦の最中、しかも負けて逃げている途中で、いくらお腹が減ったからと言って

のんきに小豆のお餅を食べるというのも、おかしな話ですし、

仮に、そういうことがあったとしても、

引馬城(当時はそのように言っていたらしい、ちなみに曳馬という地名もあります)のお殿様から

お金を取ろうとしたでしょうか?


おそらくは、家康の出世を語るにおもしろいエピソードとして誰かがおもしろおかしく言ったことが

伝えられたのだろうと思います。


さて、この銭取というお菓子。中はこんな感じでした。



白あんの入ったマドレーヌといった感じでした。

どうせなら、「小豆餅」の方が良かったなぁ・・・・粒あん好きなワタシ


現在の浜松城は、再築された天守閣と当時のままの石垣が残るのみ。

浜松城のあるところは 松城町といいますが、すぐ南は 元城町といいます。

本来のお城がどれほど大きかったかを知ることができます。



春には、桜を愛でる人たちでにぎやかです。