自分自身の多様性に対する認識について考えたときに | ねこままのブログ

ねこままのブログ

誰に話すとも無い、自分の心の中の声です。

ふと気づくと、私は人の言動の中の、差別的な表現にやたら過敏に反応する「差別警察」的な人間になっている気がする。


いちいち人の言葉尻に神経質になり、そこに少しでも差別的と感じられる表現を見つけては、自分の中でそれを断罪するという、無自覚な癖があるように思えて、それがとても悩ましい。


私は常に社会に対し、多様性が受け容れられる社会になることを求め続け、いつかそうなることを望みながら、自分を振り返ったときに、自分が一番多様性を受け容れられていない。


私から見る多様性はまず、自分以外の全ての人に対して向けた私の視点で、まさに「私以外の全ての人の全ての価値観を受け容れること」という感覚であったのだが、それがまず1つも出来ずに、自分と他者との価値観の違いにいちいち理解できず悩んできた。


そして自分の内面は、理屈ではなく自分の生理的感覚として、おそらく他者と異なる独自的な価値観によるものではあるが非常に視野が狭く差別的であり、表面的には寛容でありながら、内面的には他人を受け容れられず突き放しがちだ。


そんな自分に対する矛盾にずっと悩まされ続けて生きてきて、さっきふと気づいたのは、


もしや、多様性は

「受け容れるもの」などではなく

「折り合いをつけるもの」なのではないか、と。


他の人の感覚まではわからないが、もしかすると、自分とは違う他者の価値観など、どこまで行っても真から「受け容れる」なんてことは出来る訳がなくて、最も適切なものは「折り合いをつける」なのではないだろうかと。


受け容れようとするから自分の内面が自然と拒み、それが激しい拒否反応として心を支配してしまうという、考えれば当たり前の原理が私の中で起こっていたのかもしれない。


他人の価値観を、多様性を受け容れようとして、自分が自分に無理やり押し付けようとしたところ、それを受け付けられずに反発して、結局嫌悪感や差別感になる。


違いを、自分の中に「受け容れる」よりも、「折り合いをつける」方がずっとたやすく自然にできそうであり、その辺を特に意識せずとも自然に上手くやれている人がたくさんいるようにも思う。


違いは違いとして横に置いておいて、別に自分がそれを受け容れなくたっていい。この人と自分は違ってたっていい。それを理解できなくたっていい。理解できない自分を無理やり変えようとしなくていい。無理やり変わろうとしなくていい。変われない自分を責めなくてもいい。


みんな違って当たり前なのだから。


金子みすゞは「みんなちがってみんないい」と言ったけれども、


自分自身がいつまでたっても、ほんの少しも、生理的に心底そんな風に、金子みすゞのように実感できなくたって、そんな自分を心の狭い、思いやりのない、冷たいひどい人間なのだと思わなくていい。


良い悪いじゃない、違うんだから。感じ方も考え方も。あの人と私では。その人とこの人では。私もあの人もこの人もその人も、みんなどこか似たところがあって、みんな全く相容れない理解し合えない違いを持っている。どうしても心底は受け容れられない違いを。


それを無理やりピッタリくっつけさせようとしない。内面の奥底に取り込めるなどと思わない。それを寛容だと思わない。


さっき、それを教えてくれたのは息子だった。

「別に、根本的な価値観や考え方が違うんだったら、わざわざそこに行く必要はないんじゃない」

SNSや動画配信者についての話の中で出た言葉だったけれど、何か自分の中に思い当たった。心当たりがすごくあった。


嫌いだなと感じるものに、むしろ執着してしまう。執着してしまうからこそ、その嫌悪感と、どこまでも、とことんそれが嫌で全く受け容れられない自分に心病んでしまう。


当たり前の現象だったのだ。


自分が嫌なものを受け容れようとするから、余計嫌になる。どんどん嫌悪感が増す。無駄に心病みモヤモヤしてトゲトゲしくなる。


山崎まさよしのセロリという曲に、「育ってきた環境が違うから、すれ違いはしょうがない」という歌詞がある。

当時、私はこの歌詞を、価値観が違うのは仕方ないからそれを受け容れるのが愛情だというような意味の歌詞であるかのように錯覚していたけど、そうではないんだ。

「すれ違いはしょうがない」だから、「すれ違っていい」「相容れないものを相容れようとしなくていい」むしろ、「相容れさせようとしないでいい」。


昔私は、とある劇団の俳優養成所にいる頃、同期の中で犬猿の仲の2人がいて、その2人を何とか仲良くさせようと必死になっていた時期があった。仲間なんだから理解し合える方が素晴らしい、そんな風に当時18の私は信じていた。


ドラマでもアニメでも、一番感動的なシーンは、すれ違ってわかり合えなかった者同士が互いをわかり合えて固く握手するようなシーンだった。

当然、そういう事ももちろんある。

ただ、全ての人が互いにわかり合うことが出来る…なんてことはない、し、また、それがそういうものなのだと信じて疑わなさ過ぎて、そのせいでそれが出来ない自分や他人に落胆するのは、意味のないことだ。


「すれ違いはしょうがない」し、「わかり合えないときもある」し、それらはそれでいい。


犬猿の仲は、犬猿の仲のままでもいい。

仲悪くたっていい。相性合わなくていい。理解し合えなくっていい。


そんな風に思える方が、

真の多様性社会実現に近づく可能性のある、思考のあり方なのではないか。…と、そんな気がしている。


理解し合える場合はそれがいいし、それができなければ無理に理解し合わず、そこは「折り合いをつける」。離れた方が良ければ、顔が見えないところまで離れる。


他者との適切な距離感をとる、ということを思い出せば、多様性社会実現へ向けた自分の意識の持ち方も、それと同じなのだろう。


私は「私と同じ感じ方の誰か」を探し求めてさまよい歩くのではなく、「私と違う感じ方の人達」を別に「受け容れたりせず」、特に「受け容れる必要もなく」、ただただ、上手いこと適切な距離を取りながら「折り合いをつけていく」。


何となく、私の場合はもう、これに限るように思う。