静岡県浜松市北区引佐町奥山
西郷どん、いよいよ日本がひっくり返りますね!楽しく観させて頂いてます。
で、昨年の今頃はおんな城主直虎真っ只中でした!
昨年のわたしのお誕生日の日、直虎さんゆかりの神社仏閣から御朱印集め初めたのが思い出されます。
その日は、「蜂前神社」→「渭伊神社」と行って最後に直虎のロケ地でも使われた「大本山 方広寺」と行ったのですがその方広寺の記事を書きそびれてました。
昨年の夏です・・・
レトロなお店が並ぶ参道から山の中へ・・・
山の中の参道脇に並ぶ「五百羅漢」が有名です。
だいぶ?山を上って向こうの方に本堂が観えてきました・・・
珍しい赤い橋「亀背橋」(きはいきょう)を渡れば本堂です。
おまけ・・・最近手に入れた戦前の亀背橋の絵葉書
先ずは方広寺の鎮守さまの「奥山半僧坊大権現」へ・・・
天狗様が奉られてます。
そして「大本山 方広寺」(だいほんざんほうこうじ)の本堂。
徳川四天王「井伊直政(なおまさ)」の母方、奥山家ゆかりの寺。
方広寺は、別称で『奥山半僧坊』と呼ばれています。
方広寺は、別称で『奥山半僧坊』と呼ばれています。
立派な本堂です。
この時はこれが開催中でした。
特別展「井伊家・奥山家と方広寺」
方広寺と直虎
直虎が成長を見守った井伊直政。湖北五山の一つ、方広寺は、直政の母(奥山因幡守朝利(いなばのかみともとし)の女(むすめ))の出身である奥山家ゆかりの寺、臨済宗方広寺派の大本山です。南北朝時代の建徳(けんとく)2(1371)年に後醍醐(ごだいご)天皇の第11皇子無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)(御開山)が、当地を治めていた奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)(開基)に土地と建物を寄進されたことによって開かれました。直虎の曽祖父井伊直平(いいなおひら)は、渓雲寺(けいうんじ)、祖母は如意院(にょいいん)にそれぞれ祀(まつ)られていますが、両寺はいずれも方広寺の末寺にあたります。このように直虎と深いつながりのある方広寺は、東海屈指の有名な寺で、境内には国指定重要文化財の釈迦三尊(しゃかさんそん)の他、七尊菩薩堂(しちそんぼさつどう)や五百羅漢(ごひゃくらかん)などがあります。
奥山家はもともと井伊家の縁戚。さらに開基から11代目の奥山因幡守朝利は、娘たちをそれぞれ嫁がせることで井伊谷で有力な土豪(どごう)全てと結びつけました。また、徳川家康も岡崎城から引間城に入る前に、方広寺に滞在したと史実に残っています。もちろん、井伊直虎も幼い頃、方広寺に遊びに来ていたと思います。
(浜松市ホムペより)
直虎が成長を見守った井伊直政。湖北五山の一つ、方広寺は、直政の母(奥山因幡守朝利(いなばのかみともとし)の女(むすめ))の出身である奥山家ゆかりの寺、臨済宗方広寺派の大本山です。南北朝時代の建徳(けんとく)2(1371)年に後醍醐(ごだいご)天皇の第11皇子無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)(御開山)が、当地を治めていた奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)(開基)に土地と建物を寄進されたことによって開かれました。直虎の曽祖父井伊直平(いいなおひら)は、渓雲寺(けいうんじ)、祖母は如意院(にょいいん)にそれぞれ祀(まつ)られていますが、両寺はいずれも方広寺の末寺にあたります。このように直虎と深いつながりのある方広寺は、東海屈指の有名な寺で、境内には国指定重要文化財の釈迦三尊(しゃかさんそん)の他、七尊菩薩堂(しちそんぼさつどう)や五百羅漢(ごひゃくらかん)などがあります。
奥山家はもともと井伊家の縁戚。さらに開基から11代目の奥山因幡守朝利は、娘たちをそれぞれ嫁がせることで井伊谷で有力な土豪(どごう)全てと結びつけました。また、徳川家康も岡崎城から引間城に入る前に、方広寺に滞在したと史実に残っています。もちろん、井伊直虎も幼い頃、方広寺に遊びに来ていたと思います。
(浜松市ホムペより)
最後に御朱印頂きました!
お誕生日の日の御朱印、ご利益ご利益!
一年があっという間にでした!\(^o\) (/o^)/
そう云えばこの日ここではたくさん蚊に刺されました!が、今年の今は全く蚊に刺されてなかったです・・・どうも暑過ぎのせいで蚊の行動が鈍ってるとか・・・
まだまだ暑い日がつづきます、そしてまたまた台風が・・・皆さまくれぐれもお気を付け下さいませ。