旧約の朗読が終わったら、新約(新共同訳)を朗読する予定ですが、

パウロの書いたところは朗読無理かも。

精神的に耐えられないと思う。

無垢なまま初めて聖書よんだときでさえパウロの所読んだとき

息苦しくなったのに。

御子の形がどーたらでイエスは長子だという、前回の聖句読んだだけで

吐き気がする。

 

パウロの書物朗読したら、変な呪文がかかるのではないだろうか。

だからパウロのところは朗読することはせず、読むだけにしようと思う。

 

昨日の夜、それ考えてたらあまりにもムカついて来て

「パウロ嫌い」と検索してみた。

そうしたら、なんだーーわたしと一緒の人いるじゃん。

わたしのようにパウロ嫌いって言ってる人。

 

パウロの書物を使ってるクリスチャンは信じられない

とか

パウロの書物は聖書だとは思ってません

とか

パウロ何様?

とか

パウロの書いた内容は霊感が感じられない

とか

パウロはイエスのことを捻じ曲げて書いてる

 

 

さっと見ただけだけど、こんな感じでありました。

 

パウロの書いてることを信じてたら、

預言者だって必要ないし、イエスだって必要なくなってしまう。

 

あくまでもパウロがただ思っていることを書いてあるだけで、

パウロも確信犯的に書いてるよね。絶対。

キリスト教にとって都合が良いようになんでも書けるのですから。

なぜそれが聖書にあるかって話だが、

それは聖書自体がキリスト教の書物だから。

 

 

「反キリスト」と名前を考えたのも

おそらくキリスト教だと思うし。

キリスト教だけでしょ「反キリスト」って言ってるのは。

 

「反イエスキリスト」でもなく「反イエス」でもなく

「反キリスト」と書くところもいやらしさを感じます。

 

「異言」という言葉はパウロが考えたのではなかったけ??

パウロは預言者になれなかったから、異言という言葉を作り

聖霊が降り注ぐと異言が言えるとか言ったのではないだろうか。

旧約の主の御言葉を無視してる。

主は偽預言するなとあんなに何回も書いてあるんではないか!

偽預言も異言も一緒だ!

 

 

 

 

新約のどっかに

「ヤコブ(神に背く人)を信じるな」

と書いてあった気がするけど、あれは幻だったのだろうか。

新約読み返す時気を付けて読みたいと思うが。

これを見た時もいやらしさを感じて、

だったらヤコブってつけるなと思ったけど。

やり方が黒王子の臭いがする。

 

 

覚えているのがRAPTは、ペトロを絶賛し、

パウロも褒めてた。

このことからも、どういう宗派か詳しい人はわかるのかも知れませんが。

 

それでRAPTが対談で、イエスとパウロの話をしていました。

印象的だったので今でも覚えています。

 

イエスは大工の息子で貧しくて

学(まなび)もなかったのですよ。

 

でもパウロは、いいとこの坊ちゃんで学(まなび)もあって

頭も良かった。

うへへ

by RAPT

 

これを聞いて、驚きました。

イエスの教えとは反対の事を言ってる気がしたし

イエスをバカにしているように聞こえたからです。

RAPTは、だいぶあとになって「私の主はイエスです」と信仰告白してます。

 

ちょっと自信ないですがRAPTのこの話の続きがあって

おそらく、イエスは霊的な部分で神に遣わされた人で、

パウロは、頭の良さで宣教ができたという話になったと思います。

 

それで、RAPTは偽神に「おまえはパウロのようになれ」と啓示があったので、

いいとこの坊ちゃんで学もあって頭良いこの私RAPTがパウロにかわって

頑張りますと間接的にいってるように話をしていました。

 

 

文章でも感じますが、対談などの人との会話で、

その人の性格の良し悪しや、今までどう生きて来たかとか

わかり、それが言葉にじみ出てきます。

本人はそうとは気づいてないというところがまた面白いところです。

馬顔不思議あゆも、文章で人物像がわかりました。

 

 

わたしとイエスキリストにちょっと共通点がありますが、

別の機会に書きたいと思います。

 

 

話は変わりまして、以下の記事の続きのようなことを

書きたいと思います。

 

③Michaelはイエスを長子として書いてあるがその確かな証拠が書かれてない。

 

 

前回、一列間違ってたようです。

すべての訳が以下でいいと思います。

なのですべての訳に「長子」(初子)と書いてある。

 

詩編89.28

わたしは彼を長子とし

地の諸王の中で最も高い位に就ける。

 

 

 

 

前回以下のようにMichaelが、詩編89.28を使って、イエスキリストだと

書いてましたが、

****

 

https://ameblo.jp/leo085/entry-12340531493.html

 

また、「わたしは彼を長子とし、地の諸王の中で最も高い位に就ける。」(詩編89:28)と言われているのが神の御子、主イエス・キリストなのです。(by Michael)

 

****

 

それでいや、これは話の流れからいうと「ダビデ」だとわたしは前回書きました。

 

それで、あとでよくよく最後まで読んでみたらまた驚きました。

この詩の続きは、

 

詩編89.38-39

しかし、あなたは拒んでお捨てになりました。

あなたによって油そそがれた者に向かって、

あなたは激しく怒っておられます

あなたは、あなたのしもべの契約を廃棄し、

彼の冠を地に捨てて汚しておられます…

 

 

詩編89.49

主よ。あなたの先の恵みはどこにあるのでしょうか。

それはあなたが真実をもってダビデに誓われたものです。

 

 

ダビデの契約は廃棄されとあります。

なので、「長子の権利」も廃棄されたということになるのでしょうか。

 

長子というのは、父→子へ受け継がれるイメージがあります。

もしくは、イサクを長子と神が決めたように神が長子を決める場合もあると。

 

 

前回の記事にありましたように、

長子の権利はイサク※訂正ヨセフが持つことになりました。

 

時系列がよくわからないのですが、

ダビデは神によって長子の権利をもらえるはずだったのに、

ダビデの行いから長子の権利は廃棄されたと考えていいのだろうか。

神によらなければ、長子は父→子で受け継ぐので、

ダビデは普通だったら長子の権利はないはず。

 

イサク※ヨセフから長子の権利はどこへうつったか調べてみました。

 

 

創世記48章にそのことが書いてありました。

 

創世記48.5

今、私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、

私の子となる。

エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子になる。

 

 

創世記48.14

すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、

左手をマナセの頭の上に置いた。

マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。

 

 

 

創世記48.17-19

ヨセフは父が右の手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、

それは間違っていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭から

マナセの頭に移そうとした。

 

ヨセフは父に言った。

「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、

こちらの頭に置いてください。」

 

しかし、父は拒んで言った。

「わかっている。わが子よ。私にはわかっている。

彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。

しかし、弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」

 

 

 

長子の権利について、はっきり書いてあるところは

以下です。

 

エレミヤ書31.9

彼らは泣きながら帰って来る。

わたしは彼らを慰めながら導き

流れに沿って行かせる。

彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。

わたしはイスラエルの父となり

エフライムはわたしの長子となる。

 

この聖句は「新しい契約」というタイトルです。

 

あれ?

 

以下のMichaelの言葉は全然的外れになるということになるとおもいます。

****

https://ameblo.jp/leo085/entry-12340531493.html

 

主イエス・キリストもまた、兄弟の中で長子だからこそ、神がお選びになった人間を祝福され、神の御国へと導くことがおできになるのです(ローマ8:29参照)。また、「わたしは彼を長子とし、地の諸王の中で最も高い位に就ける。」(詩編89:28)と言われているのが神の御子、主イエス・キリストなのです。

****

 

Michaelはエレミヤ書は無視しているのでしょうか。

ダビデの話をイエスに置き換えたり

イエスを長子といったり、おかしいこと言ってます。

ヤコブからエフライムに長子の権利が渡り、それが子孫、父→子で受け継ぎながら

(この聖句の流れで行くと)終わりまで続くのではないでしょうか。

 

 

エフライムということは「北イスラエル」が長子権を持っているということで

いいだろうか。

 

 

ユダは、以下のように、王権はユダを離れずとあります。

長子権と王権はおそらく別のようです。。。

 

 

創世記49.10

王権はユダを離れず、

統治者の杖はその足の間を離れることはない。

ついにはシロが来て、

国々の民は彼に従う。

 

 

 

「南ユダ」には、王権があるいうことになると思います。

でも長子権がない。

 

「南ユダ」は、ユダ族とベニヤミン族の2部族。

 

パウロはなんと!!ベニヤミン族!!らしいです!!

読者のみなさま知ってましたか??

となると、ますますパウロが言っている事があやしいとわたしは

思ってしまうのですが。

考えすぎかな。

 

 

「南ユダ」でユダ族は、イエスキリストに繋がりますから。

それとくっついてる、ベニヤミン族のパウロ。

 

ファリサイ派から劇的改宗したのではなく

もともとキリスト教だった可能性もあります。

違うかな。

 

パウロはなぜ、以下のようなおかしなことを言ったのでしょう。

パウロはMichaelのように、

エレミヤ書31.9(前途参照)

を知らなかったのでしょうか。

知らないわけないと思いますが。。。。

エフライムが長子と書いてあるじゃないですか!!

ローマ8章29

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、

御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。

それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

 

「南ユダ」王国で長子権がないための、

何かの策略のように思いますが、

こんな人々を洗脳させても、無駄なのになぜパウロは?

となると、パウロは本当に神という存在を信じてない可能性があります。

「教会」という組織側にいるだけで(RAPTとMichaelもそう)

それで宗教で政治をおさめようとしている、ただの政治家のような人だった可能性があります。

 

 

 

↓以下パウロについて、聖書の人々の本を参考にさせていただきます。

 

****

 

ではなぜ、キリスト教を異端としていた彼が、

改宗することになったのだろう。

キリスト教徒を捕らえ、エルサレムに連行して裁判をかけるためにダマスコに向かって

いたパウロは、その道の途中に幻を見る。

眩しい光とともに現れたのは、敵対していたイエスであった。

イエスは、なぜ自分を迫害するのかとパウロに尋ね、ダマスコに行って次の

指示を待つように告げる。

そして、その後3日間目が見えなくなったパウロを、

イエスの弟子アナニアが治してくれたことから、

パウロの心は一変する。

イエスがメシアであり神の子であると信じるようになったパウロは、

回心し、熱心な宣教者となっていくのである。

(しかしアナニアにとって、パウロの目を治すのは不本意だったといわれている。)

 

聖書の人々の本より抜粋

 

*****

 

パウロは、まぶしい光と共にあらわれたイエスをみます。

こういう奇跡は、イスラム教徒がイエスがあらわれたことによってキリスト教

に改宗したやらせ動画にそっくりです。

 

↓以下に動画あります。

 

 

コーランはイエスをメシアとしているので、900人夢を見るの動画は秦氏側やらせ動画?秦氏とシーア派

 

 

イランに行った宣教師の動画…シーア派とキリスト教は友達。真実はひとつ!私は打ち負かす自信がある!

 

 

 

また発見!シーア派とつるむクリスチャン。イサクがイシュマエルにすり替え?初心な頃の私のメール

 

 

リーハイバレー・ジャパニーズ・ミニストリーが怪しい動画を作っているようで

他にも同じような話がありました。

 

https://lehighvalleyjm.com/history/

リーハイバレー・ジャパニーズ・ミニストリー

 

 

イエスは、「なぜ自分を迫害するのか」とパウロに言いますが、

イエスは、右の頬うたれたら左の頬もむけろ言葉をのこすぐらいなのに、なぜ

自分のことを迫害されたといって姿をあらわすのでしょうか。

たしか、元ヤンこなきが書いてあったかなぁ(元ヤンこなきは悪口を言われているようで)

箴言に、「自分の悪口は流せ」とも書いてあります。たしか。

なのに、イエスは流すこともできなかった。

前回もかいたけど、自分の悪口いわれたからって

ピーピーいってんじゃねぇよ。

くだらん。

自分じゃなくて万軍の主の悪口を言ってるものにたいして向かっていけ!

わたしは万軍の主の悪口を言うやつがすごくむかつく。

自分の悪口は一回もまだこのブログについて言われたこともないし、

ネットで自分の悪口を捜す趣味もない。

 

悪口悪口いわずに論じて勝って見ろ、このカスども!!(Michael、RAPT)

カスが、勝てないのはわかっているが。

 

パウロが目が見えなくなったとありますが、

そんなの演技でできるのですが。。。。

しかも、アナニアにとっては不本意だったとやらしい書き方して

真実味をださせようとする。なおさら怪しいわ。

 

 

 

パウロは、ネロ帝に逮捕され65年に斬首されるまで、

何度も逮捕されながらも、めげずに教えを説き続けたと言われている。

聖書の人々の本より

↑以上のように、イエスは、パウロになぜ迫害するのかといったきり、

もう二度と姿をあらわしてないような感じします。

 

 

なんの意味があってイエスはパウロにあらわれたのでしょうか。

 

万軍の主は、「恐れるな、わたしがあなたと共にいる」というのは

印象にありますが、

ダニエルも万軍の主に助けられた。

 

万軍の主はどこかで言ってます。

他の神々がわたしのように助けることができるかというようなことを。

 

イエスという人物は、パウロを助けることができなかった

もしくは

パウロを助けるつもりがなかった

ということでしょうか。

なぜ助けない?

 

イエスは何の力も自分自身持っていなかったか、

 

もしくはパウロがイエスの幻をみたと嘘をついている可能性があります。

キリスト教という組織のためにです。

 

わたしは、パウロはイエスの幻をみてはおらず、

パウロは嘘をついている可能性が高いと思いました。