以下の記事のメッセージ。

 

 

「カルデア(ヤ?)に(は?)、衣あたえられた光輝くものをみなさい」

 

 

メッセージは、カルデラのような気がする。

カルデラとは、

 

****

 

Wikipediaカルデラ

 

カルデラ西: caldera[1][2][3])とは、火山の活動によってできた大きな凹地のことである。「[4]」「[5]」という意味のスペイン語に由来し、カルデラが初めて研究されたカナリア諸島での現地名による。本来は単に地形的な凹みを指す言葉で明瞭な定義はなく、比較的大きな火山火口や火山地域の盆地状の地形一般を指す場合がある。過去にカルデラが形成されたものの、現在は侵食や埋没によって地表に明瞭凹地として地形をとどめていない場合もカルデラと呼ぶ。

 

 

****

 

 

↓こちらも

 

Wikipedia阿蘇カルデラ

 

 

 

 

カルデア人もありますが。。。

 

Wikipediaカルデア

 

 

 

 

 

わたしは、あの時、ムカついて以下の記事を書いて

 

殴り書きするところだった。。。

 

に投稿。

 

記事を書いた後に、阿蘇山噴火のニュースを見て、そのニュースの時は、

噴火は未明に発生したとなっていた。

 

次の日、10月8日午前1時46分に発生との事を知った。

(この数字4と6というか、6と4についても今度記事を書きたいと思っています。)

 

 

わたしは、ムカついていた。孤独感もあった。

真の仲間はいないのかと強く思っていた。

でもひとりでもいいかとも思っていたけど。

主のアクセスの祝福が、名古屋で集中してあったので、

名古屋に仲間がいるかも知れないとも思っていた。

 

 

 

↓こちらが阿蘇山上空


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↓こちらは、沖縄らしいです。

 

 

 

 

 

 

阿蘇山が爆発的噴火した数日前に現地付近で「謎の発光体」~「中岳火口目指してた」

 

 

NEVERまとめ

【速報】阿蘇山噴火の数日前にUFO

 

 

 

阿蘇山噴火前にUFO目撃!?火口付近を飛行していたのはなぜ?

 

 

 

 

だから

「カルデア(ヤ?)に(は?)、衣あたえられた光輝くものをみなさい」

 

 

このメッセージを受け取った時、仲間を示していると思いました。

 

 

カルデラに→阿蘇山のこと

衣あたえられた→神の僕という意味かな

光輝くもの→写真の発光体のこと

をみなさい→わたしの仲間

 

とわたしの仲間を主が教えてくれたのではないかと思いました。

 

わたしは、以前は、UFOとか地球外生命体とかあまり興味なくて

ほとんど知らないのですが、

それにR◯◯◯氏は、宇宙人とか全否定していたから

(彼は地下世界は信じているような記事を書いていますが)

わたしもそうなのかと信じてしまってたけど、

主に出会っていろいろ体験するうちに、UFOとか地球外生命体が

否定できなくなってしまい、

最近は、UFOや地球外生命体が

わたしの仲間であり味方をしてくれるのではないかと思いはじめていました。

なので、今回のメッセージは、以上の考え方がしっくりくるような気がするのですが。。。

カルデア人も気になりますけど。

 

 

 

 

昨日、662アクセスと主の祝福がありました。

ここのところ、2桁だったので大きなアクセスとなりました。

なぜだかわかりませんが、

わたしは、昨日ずっと「聖なる者になりたい」と思っていました。

今まで以上だと思います。

今までの私、だらけて後回しにしていたことを、後回しにせずすぐにやったり

仕事で辛くても聖なる者になるためにと思うと頑張れたり

本当に小さなことですが。。。

 

テレビは、昔からあまり見る方ではないけど、

目的なくテレビを見るのは、もう絶対したくない。

テレビを見ると主から遠く離れていく気がする。

大事な時間を、主から遠く離れるようなことはしたくない。

この現実社会から離れて、山にこもりたい。

 

 

↓以下のようにはなりたくない。

***

 

イザヤ書44

 

また、木材の半分を燃やして火にし
肉を食べようとしてその半分の上であぶり
食べ飽きて身が温まると
「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。
残りの木で神を、自分のための偶像を造り
ひれ伏して拝み、祈って言う。
「お救いください、あなたはわたしの神」と。

彼らは悟ることもなく、理解することもない。
目はふさがれていて見えず
心もふさがれていて、目覚めることはない。
反省することもなく、知識も英知もなく
「わたしは半分を燃やして火にし
その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。
残りの木で忌むべきものを造ったり
木の切れ端を拝んだりできようか」とは言わない。

 

彼は灰を食らい
惑わされた心は、その道を誤らせる。
彼は自分の魂を救うことができず
「わたしの右の手にあるのは偽りではないか」
とすら言わない。

 

*****

 

人は、他人様に気をつかい

機嫌悪くされるのではと気をつかい贈り物をしたり挨拶したりお礼いったり

謝罪したり、きれいな恰好したりするのに

 

神様のことになると、神様は寛大だとか神様は怒らないでみんなに優しいとか

神がいるならなぜ戦争をとめないのだとか

神様はなんでお願いしたのに、こうしてくれないんだとか、

平気で言ったり思ったりする。

 

主が目の前に見えないから、これでいいかとか思ったりする。

以前のわたしがそうだった。主は全てご存じなのに。

イザヤ書44みたいになりたくないから聖なる者になりたい思った。

 

あとはやっぱり愛智(知恵)が欲しい。

なんだか、やっぱりこの人なんか言っていることがズレていないか?

(神様の事について)と思うことが

たびたびあったりして、

だから天国行くのは少数で難しいんだなと思ったりする。

聖書も比喩で書かれているし、牧師の教えが本当にいいのかどうか疑問。

(聞いたことありませんが)

 

愛智(知恵)は、そこらへんに転がっているようなものではない気がします。

そして、自分なりの愛智(知恵)を見つけなくてはいけない。

人が言ったから、牧師が言ったからそれを教科書通りに信じるのではなく

自分なりの自分の人生をふりかえり答えを出さないといけないのではないだろうか。

その自分なりの答えを出したとき、主は、喜ばれるのだと思う。

なんだか、主が喜ばれているお姿を想像してしまう。

(違っていたらすみません。)

 

 

 

旧約聖書の続編が読みたくて、以下のジッパーつきを購入しました。

これなら、聖書を抱いて寝てもぐしゃぐしゃになりません(^∇^)

ピンクとブルー迷いましたが、ブルーにしました。

 

 

 

 

旧約聖書続編の中にある、知恵の書1と2を以下に掲載します。

 

 

 

 

知恵の書1

 

 

義を愛せよ

 

 

国を治める者たちよ、義を愛せよ、
善良な心で主を思い、
素直な心で主を求めよ。
主を試すことをしない人は主を見いだし、
不信を抱かない人に主は御自身を示される。
よこしまな考えは人を神から遠ざけ、
主の力は、試そうとする愚か者の罪深さを暴く。

 

知恵は悪を行う魂には入らず、
罪のとりこになっている体には住み着かない。
人を教え導く聖なる霊は、偽りを避け、
愚かな考えからは遠ざかり、
不正に出会えばそれを嫌う。

 

 

 

 

神は人の言葉を知り尽くしておられる

 

 

 

知恵は人間を慈しむ霊である。
しかし、神を汚す者を赦さない。
神は人の思いを知り、
心を正しく見抜き、
人の言葉をすべて聞いておられる。
主の霊は全地に満ち、
すべてをつかさどり、
あらゆる言葉を知っておられる。
それゆえ、不義の言葉を口にする者は
身を隠すことができず、
義の懲罰を逃れることもできない。
神を信じない者のたくらみは暴かれ、
その言葉は主の耳に達し、
その不法は懲らしめられる。
熱情の神はすべてに耳をそばだて、
不信のつぶやきを聞き漏らされない。
だから、無意味な不平を鳴らさず、
悪口を慎め。
ひそかなつぶやきもただでは済まされず、
偽りを言う口は魂を滅ぼす。

 

 

 

死は罪の結果


道を踏み外して死を招くな。
自分たちの手の業で滅びを引き寄せるな。
神が死を造られたわけではなく、
命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
世にある造られた物は価値がある。
滅びをもたらす毒はその中になく、
陰府がこの世を支配することもない。
義は不滅である。
神を信じない者は言葉と行いで自らに死を招き、
死を仲間と見なして身を滅ぼす。
すなわち、死と契約を結んだのだ。
死の仲間としてふさわしい者だから。

 

 

 

知恵の書 2


 

 

神を信じない者の人生観

 

 

彼らはこう言い合うが、その考えは誤っている。
「我々の一生は短く、労苦に満ちていて、
人生の終わりには死に打ち勝つすべがない。
我々の知るかぎり、
陰府から戻って来た人はいない。
我々は偶然に生まれ、
死ねば、まるで存在しなかったかのようになる。
鼻から出る息は煙にすぎず、
人の考えは心臓の鼓動から出る火花にすぎない。
それが消えると体は灰になり、
魂も軽い空気のように消えうせる。
我々の名は時とともに忘れられ、
だれも我々の業を思い出してはくれない。
我々の一生は薄れゆく雲のように過ぎ去り、
霧のように散らされてしまう。
太陽の光に押しのけられ、
その熱に解かされてしまう。
我々の年月は影のように過ぎ行き、
死が迫るときには、手のつけようがない。
死の刻印を押されたら、取り返しがつかない。
だからこそ目の前にある良いものを楽しみ、
青春の情熱を燃やしこの世のものをむさぼろう。
高価な酒を味わい、香料を身につけよう。
春の花を心行くまで楽しむのだ。
咲き初めたばらがしおれぬうちに、
その花の冠をつけよう。
野外の至るところでばか騒ぎをし、
どこにでも歓楽の跡を残そう。
これこそ我々の本領であり、定めなのだ。
神に従っているあの貧しい者たちを虐げよう。
寡婦だからといって容赦しない。
白髪をいただく老人も敬いはしない。
力をこそ、義の尺度とするのだ。
弱さなど、何の役にも立たないから。
神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。
我々のすることに反対し、
律法に背くといって我々をとがめ
教訓に反するといって非難するのだから。
神に従う人は、神を知っていると公言し、
自らを主の僕と呼んでいる。
彼らの存在は我々の考えをとがめだてる。
だから、見るだけで気が重くなる。
その生き方が他の者とは異なり、
その行動も変わっているからだ。
我々を偽り者と見なし、
汚れを避けるかのように我々の道を遠ざかる。
神に従う人の最期は幸せだと言い、
神が自分の父であると豪語する。
それなら彼の言葉が真実かどうか見てやろう。
生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。
本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。
敵の手から救い出されるはずだ。
暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。
その寛容ぶりを知るために、
悪への忍耐ぶりを試みるために。
彼を不名誉な死に追いやろう。
彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」
神を信じない者はこのように考える。
だが、それは間違っている。
悪に目がくらんでいるのだ。
彼らは神の奥深い御旨を知らず、
清い生活がもたらす報いを期待せず、
汚れない魂の受ける誉れをも認めない。
神は人間を不滅な者として創造し、
御自分の本性の似姿として造られた。
悪魔のねたみによって死がこの世に入り、
悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。