昨日のアクセスで、ファブリーズの記事が106アクセス!!

前回の記事では、怠け者以外にも性欲の事とか記事にしましたが、

この祝福は、怠け者の事だと思います。

主が、よく気づいたその通り(私が怠け者)と証ししてくださったのだと思います。

ファブリーズのアクセスが39アクセスから106アクセスに上昇したので

それでいつも祝福だとわかります。

 

 

 

 

↑前回の祝福は、「甘え」を自分の辞書から外すと書いたあとに

 187アクセスありました。

 

 

 映画ノアと十戒とジャンヌダルクその他。そして使徒ヨハネのこと

 

 

 久しぶりの祝福とチェ・ゲバラは赤いキリスト

 

 

 前日のファブリーズの記事が24アクセスからの翌日187アクセス上昇しました。

 

 祝福のアクセスが多くあった後は、その後徐々にファブリーズの記事のアクセスが

 少なくなっていきます。

 

 なので、波動のようなものを感じます。

 アクセスが波をうっている感じです。

 主が、祝福のためにこのブログに波をおこさせ、その後は徐々に小さくなっていく。

 でも、ファブリーズの記事は毎日アクセスがあり消えることはありません。

 これを私は、主が民に刻印を押されているからだと思っています。

 

 主はわたしを、引き上げてくださるためにこのように証ししてくださっているのだろうか。

 わたしは、なんて愛されているのでしょうか。

 どうして私なのだろうか。。。他の人はどうなんだろうか。

 わたしは、主と結婚しているから主は心配してくださっている。

 わたしを完璧な人間に、わたしを聖なる人にするために証ししてくださって

 いるのだろうか。

 

 わたしは、今でも天国に行けるか行けないかわからないと思っている。

 でも実は心の中で、「自分は主に愛されているのだから天国に行ける」

 と思っているはずだと、自問自答してみたりするが、私よりも主がわたしの

 心の中を知っていると思う。

 あぁ天国に行けなかったというシュミレーションみたいなのもしている。

 傷つきたくないから。

 

 天国に行きたいですと祈ったことがなくて、

 でも聖書には、「求めよ、さらば与えられん」という言葉があるから、

 本当は祈った方がいいのかと思ったりします。

 

 前にも書きましたが、イエスは言いました。

 私は父に愛されているから、私も父を愛し喜んで仕えると。

 

 私も主に愛されている。

 自分の心が綺麗だから愛されている事に納得していると書いたけど

 でもやっぱりなんで私なのだろうか。

 

 神は平等に、すべての人を同じように愛するのだろうか。

 よく巷で聞く言葉ですが、わたしは違うと答える。

 

 聖書に、神が選んだ民は、イスラエルの民と書いてある。

 

 今まで、平等や博愛主義が正義だと思っていた私だけれど、

 平等は聞こえはいいがそれはあり得ないと最近気づきました。

 「わたしは平等に人を愛しています」と言う人がいたらそれは偽りだと思う。

 だから、この宇宙や地球の王である主は偽善は言わない。

 でも主は、弱い人間や貧しい人間や世渡り下手な純粋な人間の味方。

 悪魔は、強い人間や、金持ちやずる賢い人間の味方。

 

 

 甘えをなくすことや、怠け者について祝福を受けた後、私は思いました。

 あぁ「天国に行けるのはごくわずかだの人たち」だという意味がまたわかった気がした。

 

 天国の扉は開いているのに、多くの人はそこへ行こうとしない。

 

 

 渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むが良い。

 

 

 


<2014年クリスマス 奇蹟の大光球 静岡>

 


画像転載元:イエス・キリスト再臨記念。 誰も知り得なかった、キリスト足架の真実!
 

 

 

 


↑富士山にて 2015年4月23日 早朝5時頃


画像転載元:龍との出会い
 

 

 

 

 自己の内面との戦いを大きなジハードとこの間書きました。

 真に自己の内面との戦いをしている人はどのくらいいるのだろうか。

 悔い改めともいいます。 

 

 

 自己の内面との戦いを大きなジハードという。とイスラエルの牧者

 

 

 

 たとえ聖書を読んでいても、その意味を悟らず自分は高慢ではない(高慢なのに)、

 今まで罪を犯したことはない(罪を犯したのに)と言い悟らなかったら、

 その人は救いようがありません。

 

***

 

 

イザヤ書44

 

また、木材の半分を燃やして火にし
肉を食べようとしてその半分の上であぶり
食べ飽きて身が温まると
「ああ、温かい、炎が見える」などと言う。
残りの木で神を、自分のための偶像を造り
ひれ伏して拝み、祈って言う。
「お救いください、あなたはわたしの神」と。

彼らは悟ることもなく、理解することもない。
目はふさがれていて見えず
心もふさがれていて、目覚めることはない。
反省することもなく、知識も英知もなく
「わたしは半分を燃やして火にし
その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。
残りの木で忌むべきものを造ったり
木の切れ端を拝んだりできようか」とは言わない。

 

彼は灰を食らい
惑わされた心は、その道を誤らせる。
彼は自分の魂を救うことができず
「わたしの右の手にあるのは偽りではないか」
とすら言わない。

 

 

 

信仰と悔い改め。ヤコブ=イスラエル=エシュルン  

 

 

甘えや怠け者の他、まだ自分が気づいていない事があると思う。

自分を客観的に見る事は難しい。

主よ教えてください。

あぁこれは教えられるものではないのか。悟らなくてはいけないものなのか。

 

それを実行するのも難しいのに。。。特に怠け者。

精力的に動く方ではないので。。。

 

気づけない人が多いから、悟れない人が多いから、多くの人は天国に行けない。

聞き触り耳障りの良い言葉ばかり聞いて、悔い改めることを忘れて自分自身を見ようとも

しなくて、他のことばかりに意識がむいている。

 

天国の門は開いているのに。