主が近くにいないような感じがするときは、夢だったのかと思う時がまだありまして、
陽極まって陰に転じてるような状態になります。
わたしの性格は、これだと思うと周りを見ず突っ走って行くとよく人に言われるのですが、
それも気になってしまいます。(母もわたしのことをそう言ってました。)
哲学者みたいだとも母によく言われました。
陰に転じた状態であった昨日、
もしかしたら『主の愛』について、今まで間違った解釈をしている部分があるのではないかと
思う事がありました。
考えて考えてきっとわたしはこうだと思うと私なりの答えを出しました。
それから、主にわたしはこうだと思うと強く祈りました。
かなり強く祈りました。
夜12時過ぎてたので、今日になります。
強く祈りながらも、うとうとと眠い状態。
レム睡眠のような状態は、不思議な夢を見たり、不思議な事が起きます。
今までもほとんどが、レム睡眠状態(夢とか)でメッセージを受け取ってきました。
意識がはっきりしているときも、見える場合がありますが。
そのうとうとした時に見えたものは、
「のれん」のようなものが出てきて、
そののれんに「あ」「い」「ち」と書かれてありました。
あいちって愛知県のことかなと思いましたが、
愛知県の名前の由来ってなんだろうと考えました。
「愛を知る」と言う事ではないだろうかという考えに至ったのですが、
先ほど、ネットで調べて見ると、
漢文の語順は英語と一緒なので、「知を愛する」ということだそうです。(愛知県についての説明)
philosophiaは、愛智という意味らしいです。
※これを書いていたら、パソコンのバックライトが光りました。主は、バックライトでこたえてくれたりします。
(ついこの間までパソコンの故障だと思っていたのですが)
以下、参考になった記事を一部転載させていただきます。
http://blogs.yahoo.co.jp/hyper_kurakura/17315345.html
------転載ここから
愛知 は 愛を知る と思っている人がいるけど違います。 愛知は 知を愛す です。
愛を知るなら 知愛 でしょう。漢文の語順は英語と一緒ですから。
語源としては、あいちは あゆち で水がわき出るということらしい。
英語で言うと philosophy (哲学) ですね。
Wikiには以下の通り
philosophia、ピロソピアー、フィロソフィア)という語は、愛智という意味である。ギリシア語において φίλος(愛しい)の派生語 φιλεῖν(愛する) と σοφία(知恵、知、智)が結び合わさったものであるので、元来「philosophia」は「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められている。
------転載ここまで
↓こちらの記事も一部転載。
http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20121026/p1
----転載ここから
哲学は英語でフィロソフィーと言う。ソフィーは古代ギリシャ語のソピア、ラテン語のソフィアに由来して「智」を意味し、ギリシャ語のフィロスは「愛する」とか「求める」という意味なので、哲学は「愛智」の学と言い換えることができる。今回の講義は、視聴者が愛智の生き生きとした姿を見る大きなチャンスになっただろう。
哲学者同士で、難しい術語を用いて議論を展開するのは、確かに学問的には重要だが、それでは愛智の素晴らしさは広まらない。そうではなく、優れた哲学者が学生の議論を通じて哲学を展開させていく、姿を目の当たりにすることで、議論や討論を通じて智に到達することの素晴らしさや魅力がわかり、智を愛すること、すなわち真の哲学の姿が伝わったのである。
サンデルも語っていたが、哲学というものは、我々が常識的に当たり前だと思っていることの自明性を揺るがす。しかし、懐疑主義に陥ることなく、省察や議論を重ねていけば、結果として、より深い考え方に到達することを可能にする。学問の原点に立ち返り、このような学問を発展させることこそが、学問改革につながっていくのではないだろうか。
--小林正弥『サンデルの政治哲学 〈正義〉とは何か』平凡社新書、2010年、27-28頁。
----転載ここまで
ヘラクレイトスの名言
智を愛する人は実際、多くのことがらに対する探求者であらねばならぬ
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最近、YouTubeのおススメ動画をポチポチみたりしているのですが、
YouTubeに出ていた方が、イエス・キリストが来てその方にこう言ったそうです。
「あなたは、主の愛を誤解している。主の愛は大きいとかではなく皆さんと一緒です」
というような事をおっしゃったそうです。
わたしはこれを聞いて、賛同の思いなのですが。
つまり、主の愛は大きいとか特別ではなく、私たちがそうであるように
怒ったり、悲しんだり、愛したりとか、私たちと変わらないという事だと私は思いました。
なので、神様はそんな人ではないとか、神様はみんなにやさしく平等だとか
神様は戦争をしないとか
世間一般でよく言われてますが、これは間違いです。
神様は私たちと同じ感情があり、同じ愛を持っているということだと思います。
話は変わりまして、『日月神示』のことが気になります。
聖書はもしかして大衆向けに書かれたものなのでしょうか。
混乱しています。
日曜日から月曜日にかけて、何か感じやすかったのも何かあるのかな。。と過去記事にも書きましたが、
『日月神示』で日と月が入ってますし。
『日月神示』は、聖書と違って難しそうです。。。
以上