太平洋戦争の地上戦から見る戦争の教訓(後編)

山本 章子 : 琉球大学准教授

2024年06月23日

日本本土周辺の各地では終戦までに凄惨な地上戦が繰り広げられた。今の私たちは教訓として何を導き出せるのかを前後編で考える(後編)。

終戦の過程を左右した各地の地上戦では、本土防衛のために行われた日本軍の「捨て石」作戦と、民間人の根こそぎ動員・集団自決という共通のパターンが繰り返されたことを前編で指摘した。

日ソ戦では、ソ連軍による略奪・暴行や強制連行も加わった。後編では、最新の研究である麻田雅文『日ソ戦争』(中公新書)に依拠しながら、現在進行形で行われるロシアのウクライナ侵略と重なる日ソ戦の実相にも触れる。

また台湾有事をめぐる議論に象徴されるように、本土防衛のために辺境を戦場とするという政策決定者の発想が、戦後もまったく変わっていないという現実も論じる。これの裏返しとして、台湾有事に「巻き込まれない」ための議論にも問題があることを第1次・第2次世界大戦のベルギーの歴史を参照しながら同時に指摘する。

停戦に応じなかったソ連

ソ連は東京大空襲の翌月、アメリカ軍の沖縄島上陸直後の1945年4月5日に日本に対して翌年に有効期限満了を迎える日ソ中立条約を延長しないと通告した。にもかかわらず、日本政府はソ連に戦争終結のための仲介を期待し続ける。米英両国との直接交渉を避け、ソ連の仲介に固執したのは、日本に有利な条件で終戦するためだった。

1945年7月末に、米英中3国は日本軍の無条件降伏を求めるポツダム宣言を発表した。ソ連の署名がないことから、日本政府はソ連に終戦仲介の意志があると都合よく解釈してポツダム宣言を「黙殺」しソ連との交渉に望みを託す。実際には、ソ連不信からアメリカが単独でポツダム宣言を作成、ソ連とは一切協議せずに発表したにすぎなかった。

むしろ、米ソ関係が悪化する中でアメリカがソ連への予告なしに8月6日、広島に原子爆弾を投下したことで、ヤルタ会談での密約が反故にされるのではないかとアメリカへの不信を強めたソ連は対日参戦を早める。ルーズベルト大統領はヤルタ秘密協定で、樺太・千島交換条約で日本領となった千島列島のソ連引き渡しや、日露戦争で日本が得た南樺太のソ連「返還」を認めていた。

ソ連の攻撃開始からわずか1日後の8月10日、日本政府は「国体〔=天皇による日本統治〕護持」のみを条件にポツダム宣言受諾を連合国側に表明した。ソ連の仲介で終戦する可能性がなくなったことが、日本側にどれだけ深刻な衝撃を与えたかが分かる。

だが、ソ連は無条件降伏でないことを理由に日本への攻撃を継続した。逆にアメリカは、天皇の権限を連合国総司令部の下におくことを条件に、降伏を認める回答を行う。昭和天皇の「聖断」で日本側が受諾を返答したのが8月14日深夜、翌日正午に米軍が停戦、同時に玉音放送で日本国民に敗戦が知らされた。それでも、ソ連は停戦に応じなかった。

ソ連軍は関東軍が占領していた中国東北部の満洲に侵攻。旅順・大連を占領し、日本の植民地統治下にあった朝鮮半島北部を襲う。同時並行で南樺太にも軍を進め、現在の北方領土を含めた千島列島に上陸した。

アジア太平洋戦争の最後で最悪の地上戦

大本営は、ソ連軍が日本本土に上陸しないよう満洲で足止めする持久戦を考えていた。しかし、満洲防衛を担当していた関東軍は兵力も武器も不足し、防衛招集で集めた民間人への訓練も十分に行われなかった。楽観的かつ重要な情報を関東軍に伏せた大本営の作戦は二転三転。防衛態勢が整わない満洲国にソ連軍が3方向から攻め込む。

満洲の国境線で抵抗する日本軍は戦果の乏しい戦車への自爆攻撃に固執。主力部隊は大本営から朝鮮半島への南下を命じられ、国策で満洲に集められた開拓民を置き去りにして移動した。その結果、日本人の死者数が増えていった。

ソ連軍による無差別攻撃や、搾取されていた地元住民による襲撃は、日本人非戦闘員の集団自決を引き起こす。戦闘で生き残った者も、ソ連軍による略奪やレイプ、労働力にするための軍民問わぬ強制連行、食糧や生活物資の配給がまともに行われなかったことで次々死んだ。開拓民らの死者数は約7万2000人にのぼるという。

ソ連軍の無差別攻撃や強制連行、民間人の保護放棄は、南樺太や千島列島でも横行した。ちなみに、ソ連によるポーランドとフィンランドへの侵略や独ソ戦でも、ソ連軍の無差別攻撃や捕虜虐待・殺害、略奪と暴行、強制連行、食糧や生活物資の最低レベルの配給で莫大な死者が出ている。

日ソ間で停戦が成立したのは8月19日だが、それ以降も、ソ連軍が停戦よりも占領を急ぎ、自衛のため武装解除に応じない日本軍を攻撃、日本側も抵抗したことで、犠牲者はさらに増えた。日ソ戦で亡くなった日本軍兵士は3万人を確実に超えるが、正確な数は不明だ。他方、日本人の民間人は約24万5000人が亡くなった。住民を巻き込んだ最後の地上戦の悲惨さは群を抜いている。

太平洋戦争で地上戦となった場所はいずれも、外地や日本の辺境(硫黄島、沖縄、南樺太・千島列島)だ。沖縄戦のみならず、南洋諸島やフィリピンの戦闘で死んだ日本人非戦闘員の多くも沖縄出身だった。沖縄戦で死んだ兵士のうち北海道出身者は10805人で、死者が1万人を超えるのは沖縄・北海道出身者だけだ。

こうした事実は、死者の出身の偏りも示している。本稿では詳しく触れられなかったが、太平洋戦争では朝鮮人兵士15万人、台湾人兵士3万人に加え、朝鮮人軍夫・慰安婦なども正確な数は不明だが戦場に連行され死んだ。外地や辺境の出身者ほど命が軽い戦争だったといえる。

政策決定者に残る辺境を戦場にする発想

問題は、本土防衛のために辺境を戦場とするという政策決定者の発想が、戦後も変わっていないことだ。

冷戦期、ソ連軍の上陸を想定して北海道には陸上自衛隊の戦車部隊などが重点的に配備された。ソ連が1979年末のアフガン侵攻と前後して北方領土で軍備増強すると、ソ連軍が1981年に北海道を占領し日本から分離独立させる、と予言する在日ソ連ジャーナリストの本が出版されて東京で話題となった。また、中曽根康弘首相は1983年、対ソ有事には北海道とサハリン(樺太)の間にある宗谷海峡など、3海峡を封鎖する作戦を発表した。

既視感を覚える話だ。昨今の台湾有事をめぐる動きとよく似ている。

沖縄には1972年の日本復帰後から、全国の在日米軍専用施設の約7割が集中する。尖閣諸島付近で海上保安庁の船に中国漁船が衝突、漁船の船長が逮捕された2010年の事件を機に、対中抑止として与那国、宮古、石垣の各島に陸上自衛隊駐屯地が順次開設された。同時並行で、中国が沖縄に工作員を送り込み、独立派や基地反対派の運動を煽っているという話が、沖縄の外でまことしやかに語られるようになる。

冷戦期はソ連、現在は中国の脅威に対抗して辺境を前線とするという発想には、辺境を犠牲にすることで本土は戦場にならない、という暗黙の前提がある。太平洋戦争で各地の都市部が大規模空襲で多大な被害を受けたのに、冷戦以後の長距離ミサイルの時代に水際作戦に固執し続けてきたのは非現実的、非合理的としかいいようがない。

台湾有事に沖縄が巻き込まれるという議論は、アメリカ軍による台湾救援を阻止するため、中国軍が台湾に近い沖縄を攻撃するという想定からきている。だが専門家の指摘によれば、在日米軍を足止めするのであれば、司令部のある横田基地(東京都)を中心に全国の在日米軍基地が同時に標的となる。

特に在沖海兵隊と連携するアメリカ海軍の拠点である、横須賀(神奈川県)と佐世保(長崎県)が狙われると考えるべきだ。沖縄だけが攻撃されるという発想は、政策決定者に都合のいいバイアスがかかっている。

侵略に対する感度が欠如した日本

逆に、平和運動関係者やリベラル系メディアから「台湾有事に巻き込まれないために、日米の軍事介入を阻止すべき」「台湾は中国の一部だという中国の主張を認めるべき」という議論が出ることがある。その根底にある、台湾および周辺海峡だけが戦場になれば、沖縄は被害を受けない、という考えも楽観的といわざるをえない。

専門家の間では、米中両国とも全面衝突を避けたがっており、中国は長期間の台湾海峡封鎖によって台湾に圧力をかける可能性の方が高いと指摘する声が強い。そうなれば、台湾海峡に設置された機雷が沖縄近海に漂流し、自給率の低い島嶼の住民の命綱である貨物船の航行が不可能となる。

また、自衛隊関係者は中国軍が台湾攻略作戦の拠点として、与那国島や石垣島を占領するシミュレーションを行っている。その場合、中距離弾道ミサイルで自衛隊施設・部隊を機能停止させた後、部隊が上陸する。

近年の中国軍のミサイルはピンポイント攻撃の命中率が高く、住民への被害は最小限におさえられると主張する専門家もいる。しかし、ロシアのウクライナ侵略を見るかぎり、中国軍に民間人の犠牲者を出さないというインセンティブが働くかは疑わしい。このように、日米両国が台湾有事に介入しなければ沖縄が巻き込まれないという可能性はかなり低い。

ここで、両大戦におけるベルギーの歴史を見てみたい。同国は第1次世界大戦時、中立を宣言したが、ベルギーを通過してフランスに侵攻する作戦を立てたドイツ軍の侵略を受けた。ベルギー政府はフランスに戦時政権を樹立し、国内にとどまったベルギー国王は軍を率いてドイツ軍と4年間戦い続ける。住民もドイツ軍の占領に抵抗し、1万4000人弱の死者を出した。ドイツによって、国外移住と強制労働をさせられたベルギー国民は約70万人にのぼる。

第2次世界大戦では、ベルギーはイギリスとフランスに領土安全を保障させた上で、再び中立を宣言したが、またもドイツに侵略される。ベルギー政府はフランスに落ちのび、フランスがドイツに占領されると、イギリスに亡命政府を樹立した。当時のベルギー国王は、国民の犠牲を避けるためドイツ軍に降伏したが、住民の強制労働やレジスタンスの処刑、さらにはユダヤ系住民約5万人以上の虐殺で、人口の約1%にあたる約8万8000人が死んだとされる。

ベルギーは戦後、両大戦の教訓から中立主義を捨て、二国間方式ではなく多国間条約による西欧諸国の同盟を設立する構想に参加した。ベルギーとオランダ、ルクセンブルクの3カ国は、同盟の主導権を英仏に握られることを避け、小国である自国の発言権を確保するために、アメリカを同盟に引き込もうとする。そうして1949年に実現したのが、北大西洋条約機構(NATO)だ。

平和主義の本質から離れる日本式「平和主義」

平和主義とは、非暴力的な手段をもって平和という目的を達成しようとする主義主張だ。ただ、その歴史的系譜をみると、侵略に対する自衛戦争は原則の例外として認められてきており、自衛を否定する考え方では本来ない。

しかし、日本は元寇までさかのぼらないと一方的な侵略を受けた歴史がなく、また戦後長らく社会党の「非武装中立」論が影響力を持っていたため、自国が侵略の意図を持たなければ他国から侵略されない、占領されても抵抗しなければ殺されない、と主張する識者が現在でも一定数いる。

これが歴史的に見て誤りであることは、ベルギーの歴史が示している。まして、沖縄が戦場にならないために、中国の武力による現状変更を認めるという発想は、平和主義の本質から外れている。

フランスとドイツに挟まれたベルギーが中立を維持できなかったように、日本(本土)と中国、台湾に囲まれ、どの国からも戦略上の要所と見られる沖縄が中立を貫くことは至難の業だ。だが、在日米軍専用施設の約7割を負担させられ、自衛隊基地が新たにおかれた宮古・八重山諸島が最前線とされることは、私も含めた沖縄の住民にとって受け入れがたい。

問題は、故・翁長雄志沖縄県知事が著書『戦う民意』で喝破したように、「日本全体で安全保障を守るという覚悟をもって、全国で平等に基地を負担」せず、「沖縄一県に押し付けて、21世紀のこれからもなおその状態を永続させようとする安全保障政策」である。それは、中国が武力による現状変更を意図しているからといって、正当化されるものではない。議論は常にそこに戻さなければならない。