私が625日に上梓した『決定版 零戦最後の証言2は、4月に刊行した『決定版 零戦最後の証言1』と同様、私が直接インタビューを重ねた元零戦搭乗員たちが、戦争をいかに戦い、激動の戦後をいかに生きてきたかを、戦中、戦後の写真とともに解き明かしたものである。登場人物は各巻8名で、『2』は進藤三郎、日高盛康、羽切松雄、角田和男、原田要、小町定、大原亮治、山田良市の各氏。8月末には『決定版 零戦最後の証言3』が出て、それで完結する予定だ。今回は『決定版 零戦最後の証言2』より、ある歴戦の零戦搭乗員の戦後の慰霊行脚について加筆の上、ご紹介する。

零戦で誰よりも戦った男

角田和男(つのだ・かずお。1918-2013)は、昭和9(1934)年。予科練5期生として海軍に入隊した。海軍兵学校卒のエリートとは違い、兵から叩き上げた特務士官の戦闘機乗りである。最終階級は中尉。

その実戦経験は、支那事変にはじまってラバウル・ソロモン・ニューギニア方面から硫黄島、フィリピン、さらに沖縄沖航空戦にまでおよぶ。昭和19(1944)年10月からのフィリピン戦以降は特攻隊員に組み入れられ、爆装特攻機を護衛し突入を見届ける直掩機として、辛く非情な出撃を重ねた。

昭和20年3月9日、台湾で特攻待機中の二〇五空大義隊員たち。前列左より鈴村善一二飛曹、高塚儀雄二飛曹、藤井潔二飛曹、磯部義明二飛曹。後列左より、常井忠温上飛曹、村上忠弘中尉、角田和男少尉、小林友一上飛曹

昭和20年3月9日、台湾で特攻待機中の二〇五空大義隊員たち。前列左より鈴村善一二飛曹、高塚儀雄二飛曹、藤井潔二飛曹、磯部義明二飛曹。後列左より、常井忠温上飛曹、村上忠弘中尉、角田和男少尉、小林友一上飛曹© 現代ビジネス

温厚篤実な人柄ながら、その実戦経験から、「零戦でもっとも戦った搭乗員」として、生き残り搭乗員の誰からも一目置かれる存在だった。『大空のサムライ』などの著書で著名な元零戦搭乗員・坂井三郎はめったに人を褒めない人だったが、角田に関しては私のインタビューに、「角田さんほど戦った搭乗員はほかにいないんじゃないか」と語ったほどである。

角田がかつての仲間から一目置かれたのは、戦場での獅子奮迅の働きぶりはもちろんだが、戦後、自分の生活を犠牲にしてまで、関係した部隊の177名におよぶ戦没者たちの遺族と墓を探しては訪ね、さらにかつての戦場にまで慰霊巡拝の旅を続けたことも大きいと思われる。

角田和男の1日は、2013年に亡くなる直前まで、机の上に戦死した戦友の遺影を1頁に1枚ずつ貼った蛇腹折りのアルバムを広げ、般若心経を唱えることから始まった。

脳梗塞を患い、体の自由が利かない角田にとって、ベッドから起き出すことは容易ではない。目覚めるのは朝といっても遅い時間で、そのまま布団のなかで手足の指から順に体を動かしウォーミングアップをして、やっと床を離れる頃には時計の針は正午近くを指している。

痛々しいほどに若い顔の遺影

杖を頼りにベッドの横にある質素な木の椅子に腰を下ろすと、目の前の机の上には般若心経の経典と鈴(りん)、遺影のアルバムが置かれている。

アルバムは、戦後、角田が慰霊祭のために作ったもので、遺族を訪ね歩いて集めた遺影の多くは、当人たちが海軍に入ったときや飛行練習生時代に撮られた集合写真の顔の部分だけを切り取り、戦死後、特別進級した階級の服装に写真館が着せ替えた合成写真である。

昭和20年4月、沖縄戦が始まると次々に「大義泰」の特攻機が飛び立っていった。壇上で訓示を述べる二〇五空司令・玉井浅一中佐。

昭和20年4月、沖縄戦が始まると次々に「大義泰」の特攻機が飛び立っていった。壇上で訓示を述べる二〇五空司令・玉井浅一中佐。© 現代ビジネス

角田はこれを、ソロモンやフィリピンでの慰霊祭に行くときも、靖国神社に参拝するときにも、肌身離さず持ち歩いた。慰霊祭が始まり、アルバムを広げると、なぜか決まって雨が降る。そのため、畳んだときに写真同士がくっついてしまい、何人かの遺影は傷んでしまった。

新しく写真をプリントできればいいのだが、原板がすでに失われているものもあるし、慰霊祭で降る雨は彼らの涙のような気がして、そのままにしている。

写真のなかの顔は、みな痛々しいほどに年若い。

彼らの顔をじっと見つめ、無心に般若心経を唱えていると、一人一人の最期の状況が、まざまざと角田の脳裏に甦ってくる。

特攻隊の直掩機として出撃したさい、一番機が突入した敵空母の飛行甲板の穴を狙って突っ込んだ二番機、被弾して火の玉のようになりながらも最後まで操縦を誤らず、一直線に敵空母に体当りした三番機。出撃の時の屈託のない笑顔。・・・・・・そんな情景が、つい最近のことのように鮮明に思い出されたのだ。

戦没者を悼んで唱えるお経

夕食のあとは、夜十一時過ぎまで起きて本を読んでは物思いに耽り、ベッドに入ると、戦没者177名の氏名を「南無阿弥陀仏」とともに唱える。

「崎田清、南無阿弥陀仏。廣田幸宜、南無阿弥陀仏。山下憲行、南無阿弥陀仏。山澤貞勝、南無阿弥陀仏。鈴木鐘一、南無阿弥陀仏。櫻森文雄、南無阿弥陀仏。新井康平、南無阿弥陀仏。大川善雄、南無阿弥陀仏。・・・・・・」

昭和20年の終戦直後、台湾の台中基地で撮影された、二〇五空大義隊の生き残り搭乗員たち。2列目中央が角田和男中尉

昭和20年の終戦直後、台湾の台中基地で撮影された、二〇五空大義隊の生き残り搭乗員たち。2列目中央が角田和男中尉© 現代ビジネス

心をこめて名前を唱えていると、彼らのまだ幼さを残した顔や、戦後、訪ねた遺族のことなどが脳裏に浮かんでくる。その1人1人が、角田には愛しくてならない。

つとめて全員の名前を唱えようと努力するが、晩年は途中で眠りに落ちてしまうことが多く、

「昨夜も途中までしか唱えられなかった。許してくれよ」

と、目覚めてから詫びるのである。

特攻部隊である台湾の第二〇五海軍航空隊で終戦を迎えた角田は、昭和20(1945)年12月26日、突然の帰国命令を受け、基隆港の倉庫で一泊ののち、12月27日、兵装を撤去した小型海防艦にすし詰めの状態で乗せられ、台湾をあとにした。

12月29日、鹿児島に上陸すると、そこは一面の焼け野原だった。海軍の飛行場があってなじみの深かった鹿児島の街は、山形屋デパートの残骸にかろうじて面影をとどめるのみで、完全に瓦礫の山と化していた。

「生きてさえいれば」

焼け残った市外の小学校で復員手続きを終え、30日、隊員たちは復員列車に乗せられて、流れ解散の形でおのおのの郷里に帰ることになる。

夜通し汽車に揺られて、31日早朝、広島駅に到着すると、ここも一面の焦土だった。だが、原爆の跡には百年は草木も生えないと聞かされていていたのに、瓦礫を片づけたところどころに蒔かれた麦が力強く芽吹いているのが見え、その青さが角田の目に沁みた。

角田和男氏の戦中(左、昭和17年)、戦後(右、平成22年。右写真撮影/神立尚紀)

角田和男氏の戦中(左、昭和17年)、戦後(右、平成22年。右写真撮影/神立尚紀)© 現代ビジネス

「生きてさえいればなんとか暮らせるのか」

と、角田は思った。

房総半島の突端近くに帰る角田は、東京駅で総武線に乗り換え、昭和21(1946)年元日、故郷の南三原の駅に着いた。

角田はさっそく、生家の農作業の手伝いをしながら、職を探した。そんなある日、角田はGHQの占領政策を聞かされて驚いたという。

「財閥解体、農地解放。昭和11年の二・二六事件で、青年将校がやろうとしていたことと同じじゃないかと。それをアメリカがやってくれて、これは一体どうなってるんだ、と思いました。俺たちは何のために戦争してたんだろうと思って、心底がっかりしましたよ」

昭和21年夏、妻の実家のある常磐線友部駅で降りると、二〇五空で同年兵だった草地武夫少尉とばったり出会った。草地は、茨城県にできた緊急開拓食糧増産隊に入っているという。昭和21年4月に発足したばかりの一期生で、ここで1年間、農家を助けて食糧増産に働けば、新しい開拓地が一町五反(約1.5ヘクタール)払い下げてもらえ、自作農になることができる。

農家として生きることを決意

「どこへ行っても公職追放で就職は無理だから、百姓になろうよ。土地さえ確保しておけば、また羽を伸ばすこともできるよ」

草地も農家の次男で、子供が3人いる。角田と似た境遇だった。

「一生奉公できると、大船に乗ったつもりでいた海軍でさえ潰れちゃうんだから、こんど就職するときは、いつ会社が潰れても安心して帰れるところをつくっておいてから出直そうよ。いま、11月1日入隊予定の三期生の募集が行われている。奥さんの実家に寄留して茨城県民になれば応募資格はできるよ」

500キロ爆弾を搭載し、出撃する特攻機(零戦)

500キロ爆弾を搭載し、出撃する特攻機(零戦)© 現代ビジネス

草地の熱心な勧誘に心が動いた。確かに、食糧増産は急務だ。腹が減っては戦はできない。――突然のように、フィリピン・ルソン島で、サツマイモ2本と塩湯を口にしただけでリンガエン湾の米軍輸送船団に突っ込んでいった特攻隊の戦友のことが思い出された。角田は、これからは土とともに生きていくことを決意した。

開拓農民になった角田は、持ち前の誠実さで地主たちと交渉し、雑木林を払い下げてもらうことができた。そして7坪の小屋を建て、妻、4人の子供たちと6人家族で暮らし始めた。

このあたりの土地は、火山性灰土の酸性土壌で、農業には不向きである。そこで、まずは鶏を飼い、鶏糞を肥料にし、つぎに豚、牛と飼ってその糞も肥料にして、根気よく土地を肥やしていった。昭和30(1955)年、同じ7坪ながら大工に小屋を建て直してもらい、母を呼び寄せる。6人家族が7人家族になり、1人1坪の暮らしは、念願の家を新築する昭和39年(1964)まで続いた。昭和29(1954)年には、新たに発足した航空自衛隊から、入隊するよう再三の勧誘を受けたが、

「二度と飛行機は操縦するまい、戦争はするまい」

と、かたくなに拒み続けた。

戦死者のことが頭から離れない

日本が高度成長期に入りつつあった昭和30年頃からは、農作業の合間をみては東京・北千住のメッキ工場に季節労働者として通うようになった。農繁期は農業に専念し、畑でサツマイモ、白菜、大根、スイカなどを収穫しては東京の市場に届ける。

昭和19年10月30日、フィリピン沖で第一神風特攻葉桜隊の突入を受け、炎上する米空母フランクリン(右)とベロー・ウッド(左)。角田はこの光景を上空から見ていた

昭和19年10月30日、フィリピン沖で第一神風特攻葉桜隊の突入を受け、炎上する米空母フランクリン(右)とベロー・ウッド(左)。角田はこの光景を上空から見ていた© 現代ビジネス

農閑期には毎朝4時に起き、牛の飼料の草刈をして6時の汽車で北千住に出、工場で残業をして夜10時に帰ってくるという生活で、文字どおり寝食を忘れて働き通しに働いた。

しかし、その間も戦死した人たちのことは頭を離れることはなく、常磐線に乗って往復4時間、立ちっぱなしの満員電車のなかで、1人1人の若い顔やその最期を思い出しては涙が溢れ、周囲の人に気づかれないよう、ハンカチでそっと目を押さえたりしていたという。

昭和39年、自宅を新築した頃からは、いくつかの戦友会にも参加することができるようになった。ところが、ようやく生活も落ちついてきたと思った昭和44(1969)年、妻が脳溢血で急逝する。妻の死を一つの転機として、角田は戦友たちの慰霊の旅をはじめた。

まずは遺族を探そうと、時間を見つけては早朝から厚生省を訪れた。開館と同時に戦死者名簿を出してもらい、本籍地を確認し、昼食も抜いて閉館まで筆記した。戦闘記録はどうなっているか、防衛庁の図書館にもしばしば出かけた。そして戦死者の本籍が判明するたび、手紙を出したが、返事がなかったり、宛先不明で返ってくることも多かった。

遺族の元を訪ねることに

昭和49(1974)年、角田は、かつての部下・鈴村善一から、

「宮崎県の同期生・櫻森文雄飛長(飛行兵長)のお墓参りに行きたいが、それには最後の体当りを直接見届けた分隊士に説明してもらうのがいちばんよいと思います。遺族の前では話しにくいでしょうが、当時の状況は私からもよく話しますから、ぜひ同行してください」

と頼まれた。角田が開拓農家で苦労していることは鈴村もよく知っている。名古屋市内で「八剣工業所」という金属加工の町工場を営んでいる鈴村もけっして楽な生活ではなかったが、必死に働いて得た私財を、戦死した戦友のため、遺族のために惜しげもなく注ぎ込んでいる。鈴村は言った。

昭和19年10月30日、フィリピン沖で第一神風特攻葉桜隊の突入を受け、炎上する米空母ベローウッド。画面右奥で煙を吐いているのは同じく突入を受けた空母フランクリン

昭和19年10月30日、フィリピン沖で第一神風特攻葉桜隊の突入を受け、炎上する米空母ベローウッド。画面右奥で煙を吐いているのは同じく突入を受けた空母フランクリン© 現代ビジネス

「費用が大変でしょうが、全部私が持つと言っては失礼ですから、名古屋駅までは自費で来てください。あとは旅費、宿泊費など帰宅するまで一切私にお任せください。責任をもってお届けしますから」

生活状況まで見抜いての丁重な要請に、角田は列機の厚意に甘えて応じることにした。そして、せっかくだからとほかの戦没特攻隊員たちの遺族も巡ることにした。

遺族との思わぬ出会い

最初に会ったのは17歳で特攻戦死した櫻森文雄飛長の両親である。櫻森の生家は都城でタバコ農家を営んでいた。息子の最期の状況を伝えることに躊躇いはあったが、櫻森の両親は温かく迎えてくれた。次に向かったのは、鹿児島の小原俊弘上飛曹方である。深夜の鹿児島駅に降り立った角田と鈴村は、駅前の旅館に投宿した。旅館で聞くと、

昭和19年11月11日、神風特攻梅花隊の直掩機としてマニラ湾岸道路を発進する角田和男少尉搭乗機(先頭)。毎日新聞社の報道班員・新名丈夫氏が撮影した

昭和19年11月11日、神風特攻梅花隊の直掩機としてマニラ湾岸道路を発進する角田和男少尉搭乗機(先頭)。毎日新聞社の報道班員・新名丈夫氏が撮影した© 現代ビジネス

「ここらへんは小原姓が多く、探すのは大変ですよ」

と言う。それでも翌朝、旅館の車を出してもらって、本籍地あたりを訪ね歩いたら、3軒めで小原上飛曹の実家を探し当てることができた。偶然、その日は祝い事で親戚がその家に集まることになっており、角田ははからずも、小原上飛曹の親族一同の前で当時の状況の話をすることができた。

次に向かったのは、水俣の崎田清一飛曹の実家である。川沿いに山を背にした狭い斜面の段々畑と、石垣で区切った水田のある場所で、生活が楽でないであろうことは農家の角田には一目でわかる。

崎田家は、崎田の兄が戦死、弟の崎田一飛曹も18歳の若さで特攻戦死、跡継ぎの男子がいなくなり、兄嫁に婿をとって家を継いでいた。両親もいまは亡く、崎田の血縁者は姉しかいない。だが姉はこの日、仕事が抜けられないとのことで会うことができなかった。

その晩は水俣の旅館に泊まることにした。すると翌朝、布団を上げにきた旅館の仲居が、なんと崎田の姉だった。昨夜、実家にこういう客があったと聞き、もしやと思って係を代わってもらい、部屋に来たのだという。

親御さんが元気なうちに

崎田清は、小学校の成績が抜群で、先生が、授業料を援助してでも中学校に行かせようとしたほど聡明な少年だった。それでも崎田の姉は、先生の厚意に甘えることなく、北九州の織物工場で働いて弟の学費を稼いだのだ。

「それで婚期を逃して、旅館で働いています」

と、崎田の姉は微笑んだ。

昭和20年5月4日、角田が谷本逸司中尉以下の突入を見届けたイギリス海軍の空母インドミタブル(上、円内)とフォーミタブル(下)

昭和20年5月4日、角田が谷本逸司中尉以下の突入を見届けたイギリス海軍の空母インドミタブル(上、円内)とフォーミタブル(下)© 現代ビジネス

山下憲行一飛曹の母、谷本逸司中尉の母とも会うことができた。谷本中尉は昭和20年5月4日、角田が英空母への突入を確認している。しかし、遺族に届いた戦死公報の日付が曖昧だったため、谷本の母は、息子がもしや生きているのではと一縷の望みをもち、深夜、道路の靴音が玄関前で止まったように聞こえるたび、「帰ってきたの?」と目を覚ましたという。

この4泊5日の旅を通じ、いまだ癒えない遺族の心情に接したことで、角田は、

「これは親御さんの丈夫なうちに、一生懸命自分で回らないといけない」

と思ったという。

「子供たちと相談して、出稼ぎに行った農閑期の金は俺にくれ、遺族をまわってお参りするから、とそれから本格的に始まったんです」

義理堅い鈴村は、そんな角田にいつも影のように寄り添い、戦友会にも一緒に出た。

遺族から詰問されたことも

遺族のなかには、息子や兄弟を失い、国を恨んでいる人もいた。同姓の別人に誤って戦死公報が届き、本人の遺族には公報さえ届いていない人もいて、

「今頃になって戦死していたとは、どういうことだ。貴方が責任をとってくれるのか」

と、詰問されたこともある。

「うちの息子は死んだのに、どうして貴方は生きてるんだ」

「大勢の中からうちの息子を選んだのは誰か、教えてほしい」

と責められたこともしばしばだった。

昭和19年11月6日、フィリピンで特攻隊員に指名された日の角田和男少尉

昭和19年11月6日、フィリピンで特攻隊員に指名された日の角田和男少尉© 現代ビジネス

昭和19年12月15日、特攻隊(第七金剛隊)直掩機として戦死した若林良茂上飛曹の遺族は、本人が飛行機の搭乗員になっていたことすら知らずにいた。

親に嘘をついてまで

飛行機の搭乗員を目指すには、親の同意書がいる。母1人子1人の若林は、飛行機乗りへの夢を母親に反対され、徴兵で海軍に入ると同意書を自分でつくり、部内選抜の丙種予科練に合格した。休暇で帰省したときも、母に手紙を書くときも、飛行機の話は一言も出さず、飛行服姿の写真も送ってこなかった。

角田が群馬県に暮らす若林の母を訪ねると、商店の裏の6畳ほどの倉庫のような建物に、若林の母は1人で暮らしていた。うす暗い部屋には仏壇代わりのリンゴ箱が2つ置かれ、その上に息子の位牌と、白い事業服姿の写真が飾ってあったという。

昭和20年8月、終戦後に撮影した角田和男の最後の飛行服姿。特攻指名のときの写真と見比べられたい

昭和20年8月、終戦後に撮影した角田和男の最後の飛行服姿。特攻指名のときの写真と見比べられたい© 現代ビジネス

そんな遺族の深い悲しみに触れるたび、角田の心も痛んだ。角田には、

「国のため、家族のため、一生懸命戦ったのですから誉めてあげてください」

としか言えなかった。

角田の慰霊の旅は北海道を除く日本全国、また硫黄島、台湾、ニューギニア、ソロモン諸島にまでおよぶ。

遺族にとって、息子や兄弟を戦争で亡くした悲しみは、過ぎ去った昔のことではなく、生々しい「いま」である。そんな遺族の姿に接していると、

「昨日の敵は今日の友」

とばかりにアメリカ人と仲直りするというのは、角田にとって考えられないことだった。

仲間を殺されて黙ってはいられない

「偏狭な考えだと言われてもいい。かわいい部下を大勢殺されて、いまさらアメリカと仲良くなんてできるもんですか」

と、角田はつねづね語っていた。昭和50年代、元零戦搭乗員の集いに、「エース」と称する元米軍パイロットが来たさいにも、

「エースだと?貴様、俺の仲間を何人殺したんだ。何をのこのこ日本に来たんだ」

と詰め寄り、周囲をはらはらさせている。

角田和男。平成14年、靖国神社にて。当時83歳(撮影/神立尚紀)

角田和男。平成14年、靖国神社にて。当時83歳(撮影/神立尚紀)© 現代ビジネス

昭和52年8月、特攻隊慰霊祭のため、関係者とともにフィリピンへ渡ったとき、角田は、一行で最年長だった櫻森飛長の80歳になった父親に、櫻森機の最期の状況を、終焉の地であるレイテ湾を臨みながら報告した。

「この湾に、隙間がないほど敵の艦艇が集まっていました」

角田は言った。

「長官か参謀を零戦に乗せて、その様子を見せたかった。見た上で、命令してほしかった」

あの戦いの日、連合軍の艦船でいっぱいだった広いレイテ湾には、一隻の船も、また一機の飛行機の姿も見えず、ただ真青に晴れた空と海が広がっていた。

寄る年波には勝てない

「櫻森飛長が、火の玉になって空母フランクリンに命中するところまでを御父様に報告できて、やっと『戦果確認機』としての使命を果たすことができたと思いました」

と、角田は述懐する。

平成15年、靖国神社で行われた「海軍ラバウル方面会」慰霊祭にて。前列右から3人目角田和男。左から2人目は大西瀧治郎中将の副官を務めた門司親徳・元主計少佐

平成15年、靖国神社で行われた「海軍ラバウル方面会」慰霊祭にて。前列右から3人目角田和男。左から2人目は大西瀧治郎中将の副官を務めた門司親徳・元主計少佐© 現代ビジネス

やがて、寄る年波で、1本だった角田の杖はいつしか2本になり、靖国神社の本殿の階(きざはし)を上り下りするのも一苦労するようになった。

慰霊祭に向かう道中、電車のなかで気を失い、救急病院に運び込まれたこともあったが、それでも角田は、関係した部隊の慰霊祭に靖国神社へ行くことをあきらめなかった。

「いまもよく夢に見ます。死んだ連中が出てきて、眠っていてもこれは夢だとわかるから、はじめのうちは、『お前たち、また出てきやがったか!早く成仏しろ』と追い払うように無理やり目を覚ませたものですが、歳月が経てば経つほど、夢なら覚めないでほしい、もっとゆっくり会っていたいと思うようになりました。でも、そう思えば思うほど、夢ははかなくすぐに目が覚めてしまうんです」

敵艦にまさに突入するときの特攻隊員の心情は想像するしかない。だが、角田には、自らの体験に照らしてのある確信があった。それは、角田がソロモンで戦っていたときのこと。

夢の中での戦い

「輸送船団の上空直衛をしているとき、爆弾を積んだグラマンF4Fが20数機で攻撃に来たのに列機がほかの敵機を深追いして、味方船団上空には私一機しかいなくなったことがありました。爆弾を命中させないためには、敵の注意を全部、私に向けさせなければ、そう思って、単機で下から突っ込んで行った。すると案の定、ガンガン撃ってきました。

――撃たれたときは嬉しかったですね、よし、これで俺の作戦は成功したと。射撃しながら爆撃の照準はできませんから、輸送船には一発の爆弾も当たらなかった。ガンガン撃たれながら、それまで固くなっていたのが、フワーッと胸がふくらむ思いがしました。

私は、胸がふくらむ思いを経験したのはそのときだけでしたが、特攻隊員も、命中した人はみんな、同じ気持ちだったろうと思うんです。それまでは怖れて体を固くしてるでしょうが、よし、これで命中するぞと、何秒か前にはわかると思います。そのときはおそらく胸をふくらませたんじゃないか。

それが自分の経験からして、ひとつの慰めになるんです。そう思わなきゃいられないですよ。ただ、これを戦後世代の人に理解してもらうことはむずかしいでしょうね。ほんとうに胸をふくらませるような、幸せな気持ちになったことがある人が果たしているのかどうか・・・・・・」

角田が最後まで列席していた「神風忌」(10月25日)特攻戦没者慰霊法要の芳名帳より

角田が最後まで列席していた「神風忌」(10月25日)特攻戦没者慰霊法要の芳名帳より© 現代ビジネス

90歳を超えて歩行がさらに困難になり、外出が意のごとくならなくなったあとも、角田は自宅で、亡き戦友たちを静かに弔い続けた。

角田の最期

角田が倒れたという知らせをご家族から受け取ったのは、平成24年(2012)秋のこと。脳梗塞の再発らしかった。平成25年(2013)2月14日、歿。享年94。

最晩年、自ら栽培したスイカを子どもに手渡す角田和男

最晩年、自ら栽培したスイカを子どもに手渡す角田和男© 現代ビジネス

ふつう、この年代になると同世代の友人がほとんどいなくなっているので、葬送の式は寂しいものになりがちである。だが、かすみがうら市の斎場で執り行われた角田の通夜、告別式には、交通不便な場所であるにもかかわらず、親族はもとよりかつての戦友、遺族、著書や慰霊祭を通じて出会った人たち、角田を取材したことのあるメディアのスタッフなど、斎場いっぱいの人々が参列し、別れを惜しんだ。

大戦中、誰よりも長く、誰よりも勇敢に戦った角田は、戦後はいっさいの我欲を捨てて、慰霊と巡拝に後半生を捧げた。何ごとも自分のことは二の次で、人を思いやる真心のこもった人柄ゆえ、周囲に愛され、尊敬を集めていた。

「特攻隊員の死はけっして徒死になどではなく、日本に平和をもたらすための尊い犠牲であったと思いたい。でも、親御さんたちの、子を想う姿を見ていると、たとえ平和のためであっても、二度と戦争をしてはいけない、『遺族』をつくってはいけない、とつくづく思います」

最後に会ったとき、特攻を振り返って角田は言った。この言葉が、私にとっての角田の遺言になった。