解散総選挙に向けた人気取りの思惑も外れた

土居 丈朗 : 慶應義塾大学 経済学部教授

2024年06月11日

今年6月から、所得税・住民税の定額減税が始まった。1人当たりの減税額は、所得税が3万円、個人住民税が1万円、合わせて4万円である。

しかし、この減税の実施には、各事業者の犠牲を伴う。源泉徴収制度が広く普及しているわが国において、多くの給与所得者は所得税や個人住民税を事業者が天引きして納税している。6月以降に給与を支給する際には、定額減税を反映しなければならない。

給与明細に記載するためシステム改修

林芳正官房長官は、5月29日の記者会見で、この定額減税のうち所得税の減税を給与に反映しなかった事業者に対しては、税法上の罰則は設けられていないが、労働基準法に違反し得るものと考えられるとの旨を述べた。この定額減税を6月からの給与に反映しないわけにはいかないだろう。

6月の給与で4万円の定額減税をすべて反映しきれば、7月以降は手間のかかる計算は不要となる。しかし、月々の所得税と個人住民税の納税額が4万円を下回れば、7月以降の給与を支給する際に定額減税の残りを反映しなければならない。このように、6月で全てが終わるわけではないのだ。

加えて、この定額減税の金額を、ひとつひとつ給与支払明細書に記載することを求めた。

確かに、給与の支給の際に、事業者が減税事務を手ぬかっていないことを示すべく、定額減税がきちんと反映されていることがわかるようにしておくことは重要だ。

しかし、そのために、わざわざ給与計算システムなどのアップデートをしなければならず、デジタルであっても手間がかかる。紙の給与支払明細書を出していたり、納付税額を手計算をしている事業者は、もっと手間がかかる。

おまけに、2024年12月までに定額減税のすべてを反映しきれなかった場合、市町村から別途給付をする形で補うこととなっている。

ただし、その際には、公金受取口座を登録していない人は、別途確認手続きが必要となっている。確かに、1人当たり4万円相当の手取り所得の増加にはなるが、給料に減税分が上乗せして支給されるだけかと思いきや、納税額が少ない人はそれだけで済まず別に給付をもらうための確認手続きがいる人がいる。

それなら、いっそのこと全員給付にすればよかったのに、とも思える。

しかし、岸田文雄内閣の判断は、賃金上昇が物価に追いついていない国民の負担を緩和するには、国民の可処分所得を直接的に下支えする所得税・個人住民税の減税が最も望ましいと考えたという。2023年11月に「デフレ完全脱却のための総合経済対策」を策定したときの判断だった。しかも、衆議院の解散・総選挙をにらんでか、実施を急いだ。

12月ならこれほど手間がかからなかった

6月は、定額減税を実施するのに最適なタイミングだったかというと、所得税制からみて、そうとは言えない。12月の給与に対する年末調整を行うときが、手間を可能な限り少なくできるタイミングである。

もちろん、定額減税を受ける人のすべてが給与所得者ではない。ただ、大半の人は給与所得者である。給与所得者に定額減税を実施するなら、各事業者の手間が比較的かからない12月に実施すればよかった。それを、あえて6月に実施したわけだから、実施を急いだといわざるをえない。

事業者の減税事務をより軽くする方法で減税する方法もあった。それは、定率減税である。

所得税や個人住民税の納税を一定率軽減する形で実施する定率減税は、定額減税のように、減税分を反映しきれずに(税引き後の)給与を支給するということは起こりえない。毎月定率で減税すれば、減税事務は終わる。減税しきれなかった人に給付を出すという必要もない。

しかし、定率減税の最大の欠点は、低所得者ほど減税額が少なく、高所得者ほど減税額が大きくなることである。所得格差是正には貢献しない。

今から思うと、そうしたことも考慮されて、今般の定額減税が企画されたわけだが、もっといい方法はなかったのか、といいたくなる顛末である。1人当たり4万円の定額減税が実施されれば、手取りの所得が増えて嬉しいという話になるかと思いきや、そうした雰囲気ではないのが実態だろう。

もし「給付付き税額控除」があったなら

もし、わが国に「給付付き税額控除」という仕組みが導入されていれば、定額減税も給付も一貫性を持って実施でき、減税事務や給付事務でこれほど煩わされることはなかっただろう。しかし、わが国の租税法の考え方などから、給付付き税額控除は、一部の政治家や経済学者は唱えるものの、実務的に一顧だにされていない。

2024年の春闘での賃上げ、その直後の定額減税で、好感が持たれ、衆議院の解散・総選挙に打って出られると期待したのだろうか。強いてこの時期に定額減税を実施する決断をした。

しかし、政治資金規正法改正論議が話題を席巻し、多くの人が定額減税のありがたみを感じられない状況である。衆議院の解散・総選挙どころではなくなっている。

こんな大変な思いをしてまで定額減税を実施するなら、二度としてほしくない、という印象を持つ人が多ければ、この定額減税は今年だけで2025年には実施しない、ということになるのだろうか。