小笠原欣幸による頼清徳就任演説の解説決定版

小笠原 欣幸 : 台湾政治研究者、東京外国語大学名誉教授

2024年05月23日

新政権が発足した台湾。新総統の考えが出る就任演説を台湾政治の専門家が徹底解説する。

5月20日、台湾では蔡英文氏(左)から頼清徳氏(中央)に総統職が引き継がれ、頼新総統は就任演説に臨んだ(写真:Bloomberg)

特集「緊迫 台湾情勢」の他の記事を読む

頼清徳総統の演説のポイント

・8年前の蔡英文氏の就任演説と比べると、台湾アイデンティティを一段と強めた。
・演説の大枠は蔡氏の現状維持路線だが、中国に特に配慮する発言もしなかった。
・台湾を守る強い決意を示し、「予想より強気に出た」という印象。

5月20日、台湾で頼清徳政権がスタートした。与党・民進党は8年の蔡英文時代を経て、3期12年政権を握ることになった。新総統の就任は1996年の李登輝氏以来、陳水扁氏、馬英九氏、蔡英文氏と続き頼清徳氏が5人目である。

就任演説は今後4年間の台湾の方向性を示すもので、日本、アメリカ、中国を含め国際社会が注目する。今回、中国の統一圧力が強まる中で頼氏が中国との関係をどう語るのかが大きな関心を集めた。

頼氏の就任演説は「一つの中国」も「独立」も触れず、現状維持を明言し、台湾を守る強い決意を示した。頼氏は蔡英文氏の継承者という立場を鮮明にして選挙戦を戦い当選した。したがって、蔡氏の現状維持路線を受け継ぐのは既成方針である。その現状維持とは民主化し、台湾化した中華民国の現状を守っていくことである。統一反対はいわずもがなであるが、独立に進まないことも含意している。

頼氏の演説は現状維持の大枠を継承しつつも蔡英文前総統とは異なる点があった。8年前の蔡英文氏の就任演説(2016年)と比べると台湾アイデンティティを強めた演説といえる。

最初から使われた「相互に隷属しない」

蔡前総統は2016年演説で中国を「中国」と呼ばず「両岸」、「対岸」という融和的用語を使った。それに対して頼総統は台湾とは別の存在であることを意識させる「中国」で通した。蔡氏が婉曲的に言及した1992年の経緯(中台の間で何らかのコンセンサスができたとされる経緯)にも触れなかった。

中台関係の位置づけについても「中華民国と中華人民共和国は相互に隷属しない」と述べた。これは李登輝元総統の「二国論」に通じる考え方で、中国が「分裂主義」だと強く反発した経緯がある。蔡氏は当初中国との関係改善を模索していたので、2016年の就任演説では「相互に隷属しない」という言い回しは使わなかった。しかし、関係改善は難しいと見切って2021年の国慶節演説で述べた。頼氏は最初からこの位置づけを使った。

中国はこの発言をとらえて「独立志向だ」と騒ぎ立てるだろう。また「わざわざ就任演説で述べる必要はなかった」という考えもあるだろう。だが、これは前述のように蔡氏が2021年に公の場ですでに使っている。そして、これは台湾の人々の現状認識を反映している。

最新の世論調査(美麗島2024年4月国政調査)では「海峡両岸は2つの異なる国家」と見る人が76.1%に達し、中国が主張する「両岸は一つの中国に属する」に賛同している人は9.7%にすぎない。

これは圧倒的な差だ。美麗島世論調査は昨年の総統選挙の支持率調査でも比較的正確に民意の動向を拾っていた。中国は頼氏を批判する前に、台湾の民意の多数派は中国の主張に賛同していないという現実を直視すべきではないか。

頼氏は、蔡氏が使い始めた「中華民国台湾」を使って「1996年に初の民選総統(李登輝氏)が中華民国台湾は主権独立国家であることを国際社会に示した」と述べた。これを聞いて「うわ!独立宣言か」と飛びついたメディアもあったかもしれない。

しかし、これは1999年に民進党の独立路線を現実主義に転換させた「台湾前途決議文」の言い換えである。ポイントはむしろ「すでに独立しているから独立宣言は必要ない」という独立を封印するロジックにある。とはいえ、支持者を納得させるためなので確かにわかりにくい。

今回の就任演説で頼氏は「新憲法制定」や台湾の前途を決めるための「住民投票」など台湾独立を志向する用語は使っていない。中華民国憲法も明言している。中華民国憲法を認めるなら台湾独立の選択肢はないことになる。演説の大枠は蔡氏の現状維持路線を継承したものだ。だが、中国に配慮する発言も特にしなかった。そのため台湾アイデンティティをより強く打ち出した印象になった。

中台関係は特に変わらず平行線

中国と台湾が公式に対話を再開するのは難しい。中国は2016年に蔡政権が「一つの中国」を認めていないという理由で対話を打ち切った。その後も対話の再開には「一つの中国」を認めることが必要だとの前提をつけている。

習近平指導部のこの堅い立場はまったく変わっていない。中国政府の報道官は頼氏の演説に先立ち、この立場を再三繰り返した。それに対し、頼氏は演説で「1つの中国」にはまったく触れなかった。頼氏は中国に対し「対等の原則」に立っての対話、交流、協力を呼びかけたが新味はない。中台関係は平行線だろう。

この演説は頼総統の幕僚・ブレーンが練りに練ったものだ。中国に対し融和的なことを言っても習近平国家主席の台湾統一を進める強硬な態度は変わらないと判断をしたのだろう。ただ、中国が対話に応じないのはわかっているとはいえ、「台湾は対話を求めている」というジェスチャーは繰り返し見せたほうがよい。今回頼氏がもっと強く「対話」のメッセージを発信する手はあったのではないか。

頼氏は演説で「民主の台湾」を強調した。これはアメリカなどの民主主義諸国に向けて台湾の価値を訴えるとともに、台湾の国際的プレゼンスと国際社会の台湾への関心を高め、巻き込んでいくことで台湾の安全を確保するという頼氏の安全保障観が現れている(蔡氏も同様だ)。演説は中国よりもアメリカなど国際社会に向けて台湾の新政権の安定感、予測可能性を強調し、台湾と手を携えて進むことを呼びかけることに重点が置かれた。

安心したアメリカ、不愉快な中国

頼氏が独立志向を封印して現状維持を再確認した展開はアメリカにとって悪くない。米台の良好な関係を築いた蔡政権の外交・安全保障担当チームがそのまま頼政権でも要職に就いた。そしてアメリカ議会やアメリカ政界で民主党、共和党を問わず超党派のパイプを持つ蕭美琴氏が副総統である。

この1年間、バイデン政権の使者となるAIT(アメリカの対台湾窓口機関)のトップやアメリカ議会の議員らが何度も訪台して頼清徳氏に面会している。バイデン政権から見れば、十分予測可能性のある政権でやりやすいと思っているだろう。

一方の中国にとっては頼氏の演説は不愉快極まりないものとなった。中国はさっそく「台湾独立工作者の本性を現した」(中国の国務院台湾事務弁公室報道官)、「民族と祖先を裏切る行為」(王毅外相)と強く批判した。ただ、中国はそもそも蔡政権の路線に不満だったし、その後継者の頼氏には最初から期待していなかっただろう。頼氏の演説は想定内のはずだ。

この先も批判を続けて軍事的外交的圧力をかけ続けていくが、そのやり方はこれまでの延長線でいくのではないか。中国が極端な行動に出るとは見ていない。というのも中国は、立法院が野党多数になったことで自分に有利な局面に転換したと認識しているに違いないからだ。台湾を揺さぶるより効果的な手段を手にしたのである。この先4年間、野党を使って頼政権を追い込んでいく方法を考えているだろう。

海外からは演説の中台関係の部分に注目が集まる。だが、全体を見れば演説は内政に重きがおかれていた。頼氏はAIの活用、宇宙空間・海洋の技術開発などを重視して台湾経済を強化していくと訴えた。物価・マンション価格の上昇に対処し、格差是正に努め、所得を向上させることも訴えた。1月の選挙で民衆党の柯文哲氏に若者の票が流れたが、それらの若者は中台関係より経済問題に関心が高いことを意識している。しかし、具体的な道筋の説明はなかった。

蔡氏は2016年の就任演説で具体的な改革の項目をどんどん盛り込んでいった。蔡氏は立法院の過半数があったからそれができた。頼氏は具体的項目をあげても立法院で阻止される可能性があるので一般論で語ったのだろう。頼氏の演説からは、有権者の期待が大きい経済を強調することで野党の反対を緩和したいという思いも見える。

台湾政局の焦点は与党が少数派の立法院

台湾政局の攻防は立法院(国会)に移っている。立法院では野党が多数となり、国民党は政府与党が反対する法案を次々と提出して民衆党の賛同を得て可決に持ち込んでいる。立法院はまったく新しい事態になった。

民進党は議会で苦戦を強いられて衝突でしか審議を止められなくなっている。政権運営はまさに「いばらの道」だ。頼氏は有権者がどの党にも過半数を与えなかった意味を各党がくみ取ることを呼びかけた。

頼政権下で任命された行政院長(首相)の卓栄泰氏は「立法院でたたかれる」というのが自分の役割だと心得ている。野党も反対できない経済政策で何とか突破口を見つけて「がまん強く」政権運営を一歩一歩進めていくしかないだろう。

なお演説では日本が触れられなかったが、頼氏は長年日台交流に尽力してきた。特に台南市長時代は「自治体外交」ということで日本の多くの地方、各界と友好関係を広げた。東日本大震災や熊本地震の際には台湾で集めた義援金を直接届けただけでなく、台湾からの観光旅行の再開など復興支援にも注力した。

頼氏は自民党の岸信夫氏とのパイプが太く、安倍元首相の葬儀にも参列した。個人的には蔡氏より日本への思い入れは深いといえそうだ。他方、頼氏は日本にはできることとできないことがあることも理解してもいる。日台関係から見て、頼政権の登場は民間交流などの拡大を通じ相互の信頼関係を太くしていくという点でプラスとなるだろう。