2020年から3年にわたって駐中国大使を務めた垂秀夫氏が、中国外交部と繰り広げた熱戦の日々を明かした。恫喝的な態度を取る中国サイドと臆さずに対峙してきた垂氏は「中国が最も恐れる男」と呼ばれるほどの人物だ(聞き手 城山英巳・北海道大学大学院教授)。
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無礼な中国外交部
「これまで中国は礼儀の国だと思っていましたが、私の理解は正しくないということがよく分かりました」
2021年12月1日夜、私は北京中心部にある中国外交部1階の応接室で、女性報道官であり、「戦狼外交官」として著名な華春瑩部長助理(次官補)と対面し、冒頭の言葉を投げかけました。
垂氏と王毅外交部長 ©時事通信社© 文春オンライン
発端は、同日に台湾で開かれたシンポジウムでした。オンライン参加した安倍晋三元総理が「台湾有事は日本有事」と発言。日本が台湾問題に関与を強めることを警戒した中国側は、これに猛反発したのです。
私はそれ以前から、別の案件でカウンターパートであるアジア担当の呉江浩部長助理(現・駐日大使)に、面会を求めていました。ただ、中国側は引き延ばすばかりで、一向に時間を作ろうとしなかった。
ところが、安倍元総理の発言が伝わると、「すぐ外交部に来てほしい」と連絡してきたのです。失礼な話ですから、当初、部下には「放っておけ」と伝えたのですが、外交部は「来ないなら、今後、垂大使とのアポイントメントは全て拒否する」と脅してきた。仕方なく面会は了承しましたが、すぐさま駆けつけるのは癪に障るので、夜の会食が終わった後、あえて1時間ほどしてから、外交部を訪ねたのです。
出張中だった呉氏の代理として出てきたのが、華氏でした。初対面でしたが、私が席に着くなり、「厳正に申し入れを行いたい」と、長文の抗議文を読み始めた。私は30分ほど黙って耳を傾けていましたが、彼女が読み終えると、こう切り出しました。
「華春瑩さん、初めてお目にかかります。まずは最近、部長助理に昇進されたことを、お祝い申し上げたい」
抗議をする場合でも、挨拶や雑談から始めるのが、外交上の礼儀です。彼女は途端に「マズい」という表情をしました。一転して、「このような場でありますが(お祝いしていただき)、ありがとうございます」と居住まいを正した。これで力関係が決まったのです。私はこう続けました。
「私が面会を申し込んだときは逃げるだけ逃げて、自分が会いたい時は『すぐに来い』と呼び出す。これが貴国の礼儀のあり方ですか」
敵陣でも言うべきことは言う
続けて、元総理とはいえ、今は政府を離れた安倍氏の発言について、政府として説明する立場にはないこと、日本国内には「台湾有事は日本有事」といった考えがある現実を理解すべきであること、そして一方的な主張は到底受け入れられない旨を述べました。すると、横に座る華氏の部下が一生懸命、ペーパーを入れてくる。華氏はそれを受けて、「台湾統治時代、日本軍国主義が多くの台湾民衆を殺害した」などと言ってきたので、こう反論しました。
「日本政府で私ほど台湾問題に詳しい者はいないので、いい加減なことは言わないでほしい。当時の台湾統治と軍国主義は関係ない。日清戦争後の下関条約の結果として、清国からの割譲という正式な手続きにのっとって台湾を統治したのである」
これに対し、華氏は言葉に窮したのか、日本は19世紀末から軍国主義を採っていたという説もあると述べましたが、私からは「そんな“新説”を受け入れるはずはないだろう」と言い返しました。
おそらくこの時で懲りたのでしょう。以降、呉氏が不在の時でも、華氏が代理として出てくることはありませんでした。大使在任中は、いわば敵陣にいるわけですから、理不尽な目に遭うことが多々ありました。それでも、国益に基づいて、中国に対して言うべきことはハッキリと言う。それだけは常に心掛けてきました。
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中国が最も恐れる男――。
そう呼ばれてきた外交官が垂秀夫氏(62)である。2020年9月から駐中国大使を務め、昨年12月に外務省を退官した。
1961年、大阪府生まれ。京都大学法学部を卒業後、85年に外務省入省。南京大学に留学し、中国語研修組の「チャイナスクール」として外交官のキャリアをスタートさせた。初めて北京に赴任したのは、天安門事件が発生した89年。以来、北京駐在は4度にわたった。他の勤務地も香港、台湾といった中華圏ばかりで、キャリア外交官としては異例の経歴を誇る。その交友関係は中国共産党の中枢に加え、民主派・改革派の知識人や人権派弁護士にまで及び、中国の裁判所で「スパイ要員」と認定されたこともある。
私生活では写真撮影をこよなく愛し、写真コンテストで400回以上入賞。環境大臣賞も受賞したプロ級の腕前を持つ。
中国の表と裏を知り尽くした異能の外交官が語り尽くす新連載。第1回は、習近平氏登場以来の中国の変化について分析する。
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南京大留学が原点に
外務省では一度大使になると、2カ国以上務めるのが通例です。ところが私は中国だけで、入省同期の中で、最も早く退官することになりました。伝えられたのは、昨年夏、外務本省からの電話です。こう言うと負け惜しみに聞こえるかもしれませんが、昨年末に退官させてもらったことには心から感謝しています。さっぱりとした気持ちで、まさに光風霽月(こうふうせいげつ)の心境です。かねてから、周囲には「もし早めに大使の任期を終えられるようでしたら、いつでも言ってください」と伝えていました。
退官を希望した理由は、若い頃から患っている眼の病です。完治することのない病気で、病状を悪化させる一番の原因はストレス。私は第二の人生の夢として写真家を目指しています。ボロボロになって辞めるより、ここで退官できたことは、本当に良かったと考えています。
外交官としての原点は、1986年の南京大学への留学です。将来、北京勤務はあるだろうから、留学先は北京以外で、大使館や総領事館のない都市を希望していました。南京大学では中国人学生と留学生寮でルームシェアできることがわかったので選んだのです。
当時の最高指導者は鄧小平で、改革開放を掲げ、日本から近代化を学ぼうという大きな方針を打ち出していました。ナンバー2の胡耀邦共産党総書記も中曽根康弘総理と個人的な信頼関係を築き、84年には3000人もの青年訪中団が実現。私自身、外務省に入省して最初の仕事は、3000人青年訪中団のおかえしで訪日した中国青年訪日団の受け入れパーティ(中曽根総理主催)を担当したことでした。日本に対して温かい雰囲気がありましたから、南京という地ではありましたが、2年間の留学生活では1度も不愉快な思いをしたことがありません。
2020年に大使になると、外交官として「動ける空間」が激変したことを痛感しました。1990年代、2000年代を経て少しずつ小さくなっていき、足を踏み入れることができなくなった分野もあります。それだけに1980年代の温かい日中関係を体感できたことは、今となっては貴重な経験だったと思います。
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本記事の全文は月刊「文藝春秋」2024年2月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています( 垂秀夫「駐中国大使、かく戦えり 短期集中連載 第1回」 )。
(垂 秀夫/文藝春秋 2024年2月号)