《占守島(しゅむしゅとう)の戦いは、満州、朝鮮における戦闘よりはるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連人民の悲しみの日である》

樋口季一郎中将© zakzak 提供

ソ連紙「イズヴェスチャ」は、占守島におけるソ連軍の大損害をこう論評した。

終戦から3日後の1945(昭和20)年8月17日未明、ソ連軍大部隊は、千島列島再最北端の占守島に上陸を開始した。

これを待ち受けていたのは、幌筵(ぱらむしる)に司令部を置く陸軍第91師団隷下の歩兵第73旅団と、池田末男大佐率いる戦車第11連隊、さらに砲兵隊など8000人の精強部隊だったのである。

ソ連軍奇襲の報を受け、陸軍第5方面軍司令官、樋口季一郎中将は即座に命令した。

「断固反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ!」

火砲200門に加え、戦車第11連隊の97式中戦車改など計64両からなる大戦車部隊が、ソ連上陸部隊に猛攻撃を加えた。この攻撃で、ソ連軍の上陸用舟艇は次々と撃破され、上陸してきたソ連兵は炸裂(さくれつ)する日本軍の砲弾に吹き飛ばされたのである。

戦車第11連隊は、池田連隊長を先頭に四嶺山(しれいさん)のソ連軍を撃退すべく出撃準備を急いだ。

池田連隊長は突撃を前に、部下に力強く訓示した。

《われわれは大詔を奉じ、家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。しかし、ことここに到った。もはや降魔の剣を振るうほかはない。そこで皆にあえて問う。諸子はいま、赤穂浪士となり恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか。あるいは白虎隊となり、玉砕をもって民族の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか。赤穂浪士たらんとする者は一歩前に出よ。白虎隊たらんとする者は手を上げよ》(『戦車第十一聯隊史』)

訓示を受けた兵士らは、全員が「おう!」と歓声をあげて腕を突き上げた。皆は、迷うことなく、ただちに敵撃滅すべしと立ち上がったのである。池田連隊長率いる戦車第11連隊の大戦車部隊はうなりを上げて突進し、ソ連兵を蹂躙(じゅうりん)して押し返していった。戦車の主砲弾がソ連兵を吹き飛ばし、逃げ惑う敵兵を車載重機銃が次々となぎ倒していったのである。

そうしてソ連軍はこの戦いで大損害を被ったのだ。8月23日、ソ連軍との間で停戦協定が調印され、占守島の戦いは終結したのだった。

占守島の戦いでは、日本軍の戦死傷者約600人、対するソ連軍は何と、その5倍もの約3000人もの戦死傷者を出した。日本軍の大勝利だった。

当時、戦車兵として戦った神谷幾郎伍長は戦後、この大勝利を知ったという。

「当時は、そのことを知る由もありませんでした。私も、後からそのことを知りました。私たちは『国のために!』ということで戦ったわけですが、自分たちが頑張ったから北海道がとられず済んだんです。『本当に国のためになったんだ』と、自分自身は納得しております。自分の青春に悔いはありません」

日本軍は、ソ連軍を相手に大勝利を収めて大東亜戦争の戦いを終えたのである。

これまで、5回にわたって近現代史における日本とロシア(ソ連)の戦争を連載してきた。日本軍は、ロシア(ソ連)軍を相手に決して負けてはいなかったことを知っておかれたい。 (軍事ジャーナリスト 井上和彦)

=おわり