大破砕帯の大町トンネルと『黒部の太陽』

戦後最大のスターと言われた石原裕次郎が、独立してどうしても作りたかったのが、「世紀の大工事」黒部川第四発電所建設の「前半戦」を描いた『黒部の太陽』だった。

3時間16分もの大作だが1968(昭和43)年に公開されるや、観客は人間と自然との凄まじい戦いに圧倒された。733万人を動員し、同年の興業収入1位を記録した。

終戦後、電力不足から復興が遅れた関西。'51(昭和26)年に発足した関西電力に、京阪神急行電鉄社長から横滑りした太田垣士郎社長は、戦前に「幻のダム計画」があったことを知り、この実行を決意する。

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「天険」と呼ばれる高山が連なる黒部に、総貯水量2億tの日本一のダムを建設し、関西地域に25万8000kWの電力を供給するものだ。総工費は、関電の資本金の3倍の400億円(最終的に513億円)で、工期は7年だった。

'56(昭和31)年6月、太田垣は大手5社に発注する。

第1工区はダム本体建設で間組(現・安藤ハザマ)。第2工区は骨材製造で鹿島建設。第3工区は資材を長野県大町市から建設現場に運ぶ5.4kmの大町トンネル(現・関電トンネル)建設で熊谷組。第4工区はダムから発電所まで10.3kmの水路建設で佐藤工業。第5工区は黒四発電所建設で大成建設が担った。

想像を絶する難工事

総作業員は延べ1000万人にのぼった。

トップを切った大町トンネル建設は、同年8月から工事開始。24時間休みなく、日々平均10m以上掘り、順調に中間地点まで来た。

だが翌'57(昭和32)年5月1日早朝、突如として毎秒660Lもの滝のような湧水が工事現場を襲う。フォッサマグナ(中央地溝帯)の大破砕帯(大量の水を含んだ地層)だった。

掘削工事はストップし、水を抜く作業に徹した。恐れをなした作業員の約半数、500人が去っていった。

10月に初雪が降り、零下20度になると、水抜きと薬液注入が功を奏し、一日80cmずつ徐々に掘り進めた。

'58(昭和33)年2月25日、約500人の作業員が見守る中、ダイナマイトを仕込み、発破を行った。「ドーン」という爆音とともに、向かいの黒部からの涼風がトンネルを駆け抜けた。

日本建設史に残るトンネル建設は、1年9ヵ月の難工事の末に完成した。

376万tのコンクリートを積む世紀の工事

「私は大学時代、土木を専攻していましたが、黒部ダムを見て感動し、関西電力に入社しました。一昨年夏に所長を拝命。黒部ダムには現在、3mを超える雪が積もっています。

そんなところへダムと発電所を建設しようとした先人の決断、そして約60年も前に、よくこんなとてつもないものを造ったと、敬意を表します」

こう語るのは現在、関電の黒部川水力センター所長を務める小坂馨太氏だ。

標高3003mの雄山、2999mの剱岳、2821mの針ノ木岳……。北アルプスの山塊に囲まれた黒部川のV字に切り立つ標高約1268mの山中に、376万tものコンクリートを積み上げて、高さ186m、幅492mの巨大ダムを建設する――まさに日本で類を見ない大工事だった。

ダムの本体工事は、大町トンネルの着工より早い'56年7月、間組の先発隊が一ノ越峠を越えて急斜面を下り、約25kmの難路を行き来することから始まった。

まずは一人が50kg以上の荷を背負いながら、解体した重機などを運搬。黒部の谷に配電線を張り巡らした。

'58年5月からは、大町トンネルから重機群が運ばれるようになった。6月には太田垣社長も視察する中、ダイナマイト114tを用いて大発破を行い、山肌を一気に吹き飛ばした。

そこから山肌の土砂を掘削する作業に移った。同時に黒部川の流路を変更させる迂回路を建設していった。

生き証人が明かす凄絶な現場

「間組の若手社員だった私が、開通して間もない大町トンネルを抜けて黒部ダムの工事現場に入ったのは、'59(昭和34)年4月、23歳の時でした。本格的な掘削工事が始まった頃です。

以後、約5年にわたって現地で工事に明け暮れましたが、トンネル工事で遅れた工期をいかに縮めるかで、毎日必死でした。

24時間の突貫工事を進めた現場は、まさに想像を絶する世界だったのです」

そう語るのは、当時を知る数少ない生き証人の渡辺春男氏だ。

主にコンクリートを入れる型枠を担当していた渡辺氏だったが、周囲では作業員たちが死んでいった。

「ある時、ケーブルクレーンにつけて運ぶバケットにぶつかった作業員が死にました。作業中に土砂崩れが起きて、3人が死んだこともあります。バックしてくるダンプに撥ねられて死亡した人もいました。

現場で言われていたのは、『黒部にケガはない』ということ。事故は即、死を意味したからです」

結局、計171人もの殉職者を出した。ダムの横に『尊きみはしらに捧ぐ』と記した慰霊碑を作り、全員の名前を刻んでいる。

伊勢湾台風に襲われて……

渡辺氏は着任して5ヵ月後の'59年9月、忘れられない「恐怖の体験」をした。

「東海地方を中心に5000人以上の死者を出した伊勢湾台風が、黒部にも襲ってきたのです。

夜半に黒部川に鉄砲水が溢れ、積み上げたコンクリートが決壊、土砂だらけになりました。そして激流は、われわれの2階建ての宿舎をも呑み込んだのです。皆で必死に逃げて、九死に一生を得ました」

ここから、新たに1000人の作業員を募集して、工事を再スタートさせる。

「コンクリートをダムの下まで200m下ろすバケットを、通常の6m3のものから特注の9m3に変えたり、腕利きのクレーン職人を雇ってバケットを上げ下げする速度を速めたりしました」

バケットの上げ下げは、計20万回に及び、'63(昭和38)年6月、ついに工期を守って竣工式を迎えた。

「ダムの上で盛大な式典を催しましたが、私は上流で火薬を使って水しぶきを上げる『噴水』の役回りを仰せつかったため、参加できませんでした。

それでも日本一のダムを完成させたことに、感無量でした」