From 藤井聡
  @京都大学大学院教授


 

緊急事態宣言が解除され、五輪開催に向けて、世間の空気は先月から随分と変わってきました。

コロナについての「緊急事態」という言葉は、文字通り緊急事態なので、どんなコロナ対策であろうと、それに疑義を挟む事が不謹慎だ、という議論が空気を支配することになります。その結果、その緊急事態宣言下ではコロナ対策がどれだけ不条理であろうが無駄であろうが許容される事になります。

ところが、「緊急事態」の宣言が解除されると、そのコロナ対策が不条理なのか無駄なのかという事について吟味することが、許容される「空気」が流れ始めます。緊急事態宣言が解除されたまさに今、そういう「空気」が流れ始めているようです。

ついてはそんな状況を踏まえつつ、当方がこれまで論じてきたコロナ対策の基本的な考え方を本日は改めて解説したいと思います。

まず、当方が一番申し上げたいのは、この現実社会における実際の問題を解消しようとすれば、その場その場の状況を踏まえながら「様々な対策を組み合わせていく」という態度が必要不可欠となる、という一点です。

例えば、当方は「交通渋滞の緩和・解消」の研究を、もう30年以上続けていますが、その実践における常識は、

「ソフトからハードに居たる迄のあらゆる対策のベストミックスを目指そう」

という一点。

渋滞対策は大きくわけて二つ。道路を作るハード対策と、自動車需要を抑えるソフト対策です。

言うまでも無く、ハード対策が完璧であれば、ソフト対策は不要。めっちゃ道路がたくさんあれば、自動車需要を減らす必要なんて何も無いからです。

一方でソフト対策が完璧であれば、ハード対策は不要。つまり、どれだけ道路がちっちゃくても、自動車需要が滅茶苦茶少なければ渋滞なんて起こらないからです。

でも、実際にはハード対策を完璧にすることも、ソフト対策も完璧にすることも絶対無理

だから通常は、「可能な限りハード対策」を行うと同時に「可能な限りソフト対策」を行って、できるだけ渋滞をなくそうとするのです。

もちろん、ハード対策が十分進めばソフトなんてやらなくていい……となるので、「ソフト対策をやりたい!」と思っている人にしてみれば「ハードなんて進まない方が良いよ!」なんていうことを思ってしまったりします。でもソフト対策が完璧ではあり得ないのなら、そんな願望は、不道徳な「人非人」な願望ですよね。

同様に、ソフト対策が進めばハードなんてやらなくていい……となるので、ハードをやりたい人は、ソフトなんてやらんといて、と思ったりしますが、それも、不道徳な「人非人」な発想だということになります。

だから、本当に渋滞解消を目指している人は、ハード屋さんもソフト屋さんも、自らの限界を知りながら、お互いが敵対する側面があると認識しながらも、それを乗り越えて、

「ハードとソフト、手をあわせて、渋滞を解消しようじゃないか」

と認識し、助け合って、渋滞解消、という一つの目的を達成しようとするのです。

・・・こういうことは、防災のハード対策(堤防整備など)とソフト対策(避難対策等)との間にも起こることですし、経済対策の政府対策と民間対策との間にも起こるものです。

つまり、どんな対策も「完璧」であることなど絶対に無理なので、互いが互いを排除し合う側面は有りながらも、双方協力しながら、一つの問題を解消しましょう、と考えるのが、一般的な実務なのです。

当方はそういう認識で、コロナ不況問題も解消しようと考えてきました。

つまり、コロナ自粛によって困窮する国民を救うために、

「政府補償」という「公助」=官主導の救済

という対策と

「自粛の適正化」という「共助」=民主導の救済

という対策の二つを適切に組み合わせるべきだと考えているのです。

この両者はもちろん、上記の例の様に、互いに相反するものです。「政府補償」という「公助」が拡大すれば、「自粛の適正化」という「共助」の必要性は低減しますし、逆もまた然りです。

ですが、「政府補償」という「公助」が完璧となることは原理的に考えられず(例えば、片山さつきという自民党議員は、日本はロックダウンじゃ無いから補償なんてできないよといけしゃぁしゃぁと述べています)、したがって、ある程度の「自粛の適正化」という「共助」も必要とされることになります。

一方で、「自粛の適正化」という「共助」が仮に完璧にできたとしても、それでも「自粛」している以上は、経済被害は免れ得ず、したがって「政府補償」という「公助」が不要となることなど絶対にあり得ません(ましてやそれが「完璧」にできる事等もあり得ず、したがって、政府補償の必要性はますます高いものになります)。

つまり、コロナ不況で苦しむ国民を救うには、政府と民間が協力し、双方の取り組みを組み合わせることが必要なのです。

ましてや、今の中央政府が「緊縮脳」の政治家達・官僚達に支配されている状況下においては、「政府補償」という「公助」がほぼ絶望的に期待できないわけですから、誠に不幸にも、
「自粛の適正化」という「共助」に頼る傾向を強化さざるを得なくなるわけです。

・・・

こういう発想は極めて当たり前の話であって、渋滞対策も、防災対策、経済対策も皆同じ話だと考えられる……というよりも行政政策がこういう「ポリシーミックスで対応する」という構造を有しているのは常識だと言えるでしょう。

にもかかわらず、コロナだけは、「自粛の適正化なぞは全く考えず、徹底的に自粛して、経済被害が生じた部分は兎に角補償すればよいのだ!」と考える人がいたとすれば、当方はそういう見解には全く同意ができません

なぜなら第一に、エッセンシャルワーカーすら働かなければ社会も経済は動かず、人は全員早晩死ぬことになるのだから、徹底的な自粛なんて不可能だからです。だから、どこかで徹底自粛といいながら必ず「適正な自粛」を探らなければならなくなるからです。

第二に、どれだけ上手に政治活動を展開しようとも、現時点の菅内閣が、無尽蔵に政府補償をするという状況が生まれる見込みは限りなくゼロだからです。

そして第三に、仮に菅内閣が無尽蔵の政府補償をするとしても、カネだけで自粛の社会的被害を埋め合わせることなど不可能だからです。

・・・以上が、当方のコロナ対策についての基本的な見解なのですが、皆様は、以上の当方の見解についてどう思われるでしょうか?

もちろん、どういう見解を持たれる事も自由です。しかし以上の議論を無視し、適正な自粛を探る努力を全て害悪だと決めつける議論は、僕は思考停止に基づく完全なる暴論であると考えます。

とはいえ繰り返しますがもちろん、ご判断は全て読者に委ねたいと思います。

・・・では、また来週。

追伸:
なお、現在の菅内閣は、国民に対して徹底補償しようという意図は一切持ち合わせていない様です。誠に残念ながらそれこそが実態……是非、下記ご一読下さい。
『朝まで生テレビ』で露呈した政府与党の腐敗
https://foomii.com/00178/2021062712181281797