From上島嘉郎@ジャーナリスト(『正論』元編集長)
 


先月行われた大学入試センター試験の日本史の問題で「アジア太平洋戦争(太平洋戦争)」の表記が使われました。『大辞林』(第3版)では「アジア太平洋戦争」をこう説明しています。
〈1931年の満州事変に始まり、日中戦争・太平洋戦争を経て1945年の敗戦に至る日本の一連の対外戦争の総称。これらの戦争を一連の不可分一体のものと考え、日本がアメリカとの戦争のみならず、中国・アジア諸国に侵略戦争を行なった意味をこめた呼称。一五年戦争。〉

教科書における学習指導要領上の戦争呼称は「我が国にかかわる第二次世界大戦」のはずですが、実際の教科書では〈日本はアメリカ・イギリスに宣戦を布告し、第二次世界大戦の重要な一環をなす太平洋戦争が開始された〉(『改訂版 詳説日本史B』山川出版社、2017年発行)とあるように、米国側の呼称「太平洋戦争」が一般的に使われています。

ちなみに山川前掲書は「脚注」に〈対米開戦ののち、政府は「支那事変(日中戦争)を含めた目下の戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに決定し、敗戦までこの名称が用いられた〉と小さな文字で記していますが、いかにも言い訳めいた扱いで、「我が国の歴史」を学ぶという立場でないことが感じられます。

さらに、〈中学や高校用の教科書の中には、「日本が侵略した地域がアジア地域から太平洋地域にまで及んでいたことを示す」などと注釈を付けた上で「アジア太平洋戦争(太平洋戦争)」と併記しているもの〉(1月30日付『産経新聞』都内版)もあります。

参考書の類も見てみましょう。たとえば「伝説の学習参考書」と銘打たれた『いっきに学び直す日本史 近代・現代【実用編】』(東洋経済新報社、2016年発行)はよく売れている一冊で、著者安藤達朗、企画・編集・解説者佐藤優、監修者山岸良二の各氏です。
400頁近い大冊の各章に触れる紙幅はないので、「大東亜戦争」敗戦時の記述に触れるにとどめますが、こう書かれています。

〈(前略)7月26日、ポツダム宣言が発せられ、8月6日に広島に、続いて9日は長崎に原子爆弾が投下され、同じ9日ソ連は日本に宣戦布告を発して、満州に進撃を開始した。その日のうちに外務省はポツダム宣言の受諾を決め、御前会議でも同様の決定をみた。14日、ポツダム宣言受諾は最終的に決定され、翌15日に日本は降伏した。300万人に及ぶ死者を出して、太平洋戦争は日本の敗戦のうちに終了した。同時に、1931(昭和6)年の満州事変以来の15年に及ぶ長い戦争が終わった。〉

続いて[解説]はこうです。
〈降伏にあたって、支配者層の頭にあったのは、天皇制の維持、換言すれば自分たちの支配体制の維持だけだといえた。ソ連参戦により、ソ連の影響力が大きくならないうちに、できるだけ早期に降伏しなければならないと考えさせるに至った。国民の生命や生活に対する考慮は払われなかった。〉

事細かに指摘しませんが、ここには、ソ連が〝有効だった日ソ中立条約〟を一方的に破って侵攻した事実、日本のポツダム宣言受諾後もソ連軍が戦闘を停止しなかったことなど、相手の不法、非道な行為についての記述はありません。

「占領下の日本」となると、GHQが行った検閲・情報統制についての詳述はなく、山川前掲書はこれも脚注で〈思想・言論の自由など市民的自由の保障が進められたが、他方で占領軍に対する批判は、いわゆるプレス=コード(新聞発行綱領)で禁止され、新聞などの出版物は事前検閲を受けた〉とあるのみ。
『いっきに学び直す~』では、〈GHQによるいわゆるプレス=コードによって検閲は行われたが、天皇制のタブーがなくなり、学問研究の自由が回復されたために、とくに人文科学・社会科学はめざましい発展をとげるようになった〉と「検閲」への批判的視点は皆無です。どちらも「プレス=コード」という言葉は出てきますが、その内容は伝えられません。

2冊取り上げただけですが、他の多くも推して知るべしです。
GHQの検閲指針は、占領軍が検閲を行っていること自体を日本国民に秘匿することでしたが、今日もそれが日本人自らの「自己検閲」「自主規制」として続いているとしか思えません。独立国の国民を涵養するための歴史教育であるならば、敗戦後にそれを明らかにするのは不可欠のことでしょう。

現行憲法第21条の2項にはなんと書かれているか。
〈検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。〉
現行憲法の成立過程そのものが占領軍による統制と検閲下にあったことの矛盾を教科書、参考書ははっきりと子供たちに教えない。

結局、戦後の日本は「独立国」たらんとすることを放棄し、そのための歴史教育も不要となって、「平和を愛する諸国民」に寄り添うための歴史教育が眼目になった。「主権制限条項」を「平和条項」などと誤魔化し、事実関係の精査は不要とばかりに父祖の加害行為を認め続けることが「歴史を学ぶ」「過去を反省する」態度となり、それはおかしいと声を上げると「反省が足りない」「いつか来た道」と封じ込まれる。

戦後の日本人は、自らを「加害」の立場に置くことしか許されていないのか。当時の日本がどれほどの理不尽や暴力に耐えねばならなかったか。その一端を語ることすら戦後の言語・情報空間では禁じられ、いつしか私たちは「被害」の事実を忘れさせられ、無かったことにされてしまっているのではないか。

唐突ですが、昭和21(1946)年6月21日、新京にあった第八陸軍病院の看護婦22名が集団自決した話を書きます。それはソ連軍の非道な要求への死を以てする〝抗議〟でした。

この集団自決の真相は、同病院の看護婦長だった堀喜身子さんが昭和27(1952)年(日本の独立回復後!)、『サンデー毎日』(8月31日号)に手記を以て明らかにしました。

〈ソ連に占領された死の街のような長春、日本の女の人たちは、これまでのように女の服装をしているわけにはいきません。(略)身上調査がはじまると、私たちは看護婦であることが判ったものですから、三十四名の看護婦は長春第八病院に勤務せよとの命令を受けました。(略)翌二十一年の春でした。突如、城子溝にあるソ連陸軍病院の第二赤軍救護所から三名の看護婦を応援によこせと命令をうけたのです。(略)〉

その後もソ連から度々看護婦の追加命令が来たので、堀婦長らは変に思いながらも要求に応じ、次々と3名ずつ派遣しました。残りが婦長のほか22名になったとき、さらに新たな命令が来ました。

〈人選を終えて、憂鬱な心を抱いて、八時過ぎに病院を出ようとした時でした。何気なく入口の回転ドアを手で押して出ようとした時、なにかドサリと私の胸にたおれかかって来ました。(略)
第一回に派遣した大島はなえ看護婦なのです。(略)私は思わず、その人の上にかがみこんで顔を近づけてみました。傷だらけの顔は蒼白で、体中いたるところに十一カ所も盲貫銃創と盲通銃創をうけています。何はともあれ大急ぎで助けを求めて病室にかつぎこんで手当をしましたが、もう脈搏にも結帯があり、危険は刻々に迫っています。しかし聞くだけのことは聞かねばなりませんので、大島さんをゆすぶっては、起し起してきいてみますと、あわれなこの看護婦は、私の腕に抱かれながら、ほとんど意識を失いかけている臨終の眼を無理矢理にひきあけて、次のように物語るのでした。

「私たちは、ソ連の病院に看護婦にたのまれて行ったはずですのに、あちらで看護婦の仕事をさせられているのではありません。行った日から病院の仕事は全然しないで、ソ連将校のなぐさみものにされているのです。最初行きました三人に、ほとんど毎晩三人も四人もの将校が代る代るやって来て、私たちをいい慰みものにするのです。否といえば、殺されてしまうのです。私も殺される位はかまいませんが、つぎつぎ同僚の人たちが、ここから応援を名目に、やって来るのを見て、何とかして知らせなければ、死んでも死に切れないと考えましたので、厳重な監視の眼を盗んで、脱走して来たのです」〉

〈その話にただ暗澹と息をのみ、はげしい憤りに身内がふるえて来るのを禁ずることが出来ません。脱走した時、うしろから射たれたのでしょう、十一発の銃創の外に、背中に鉄条網の下をくぐって来たかすり傷が十数箇所、血をふいて、みみずばれにはれています。(略)身を挺してもつぎの犠牲者を出したくないと、決死の覚悟でのがれて来たこの看護婦の話に、私の涙は噴水のようにあとからあとから噴き出して来ました。
 国が敗れたとしても、個人の尊厳は侵すことはできないのではないでしょうか。それをわずか七日間の参戦で勝ったというだけで、神聖な女性を犯すとは何事と、血の出るような叫びを、可憐な二十二歳の生命が消えて行こうとする臨終の床に、魂をさく思いで叫んだのでした。
「婦長さん! もうあとから人を送ってはいけません。お願いします」という言葉を最後に、その夜十時十五分、がっくりと息をひきとりました。泣いても泣いても涙がとまりませんでした。翌日曜日午後、満州のしきたりにならって、土葬をして、手あつくほうむりました。髪の毛と爪をお骨代りに箱におさめて、彼女にとってはなつかしい三階の看護婦室に安置し、花を供え、水を上げて、その夜は、一同おそくまで、たしか十二時ごろまでも思い出話に花をさかせたのでした。(略)〉

そしてその翌日。病院の開院時間になっても一人の看護婦も出てきません。堀婦長は「もしや」と思い、看護婦室に向かいました。

〈入口の障子はピシッとしまっていますが、入口には一同の靴がきちんとそろえてあります。障子をあけると、大きな屏風がさかさまに立ててあります。中からプンと線香のにおいがしました。(略)
二十二人の看護婦がズラリと二列に並んでねむっています。しかも満赤看護婦の制服制帽姿で、めいめい胸のあたりで両手を合わせて合掌をしているではありませんか。脚は紐できちんとしばってあります。(略)
腰をぬかしてあたりをみまわすと、しーんとした死の部屋で、どの顔も、極めて平和な、しかも美しい顔をして、制服制帽こそ長い間の従軍に、つぎが当り色はあせてはいますが、折目も正しく、きちんと着ています。
二列になった床の中央には、机をもち出し、その上に昨日各自の手でおとむらいをした大島はなえさんの遺髪の箱を飾り、お線香と水とが供えられてあります。(略)〉

「遺書」が机上にあり、〈二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ、婦長にもさぞかし御迷惑と深くおわび申上げます。私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死をえらびます。たとい生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止り、日本が再びこの地に還って来る時、御案内致します。その意味からも、私どものなきがらは土葬にして、この満州の土にしてください。〉と綴られ、全員の名前がそれぞれの手で記されてありました。服毒自決でした。

この事実を、この22名の若き看護婦の思いを、私たちは忘却の彼方に置き去りにしたままでいいのか――。
江藤淳が、戦後の日本人は、過ぐる大戦とそこに至る日本の近現代史について、いまだに自分の言葉で語り始めていないと述べたのは、『忘れたことと忘れさせられたこと』(初版昭和54(1979)年)が文庫として復刻された平成7(1995)年11月(同書「文庫版へのあとがき」)です。それから四半世紀近く経って、日本の状況はいささかでも変わったか。「アジア太平洋戦争」などと造語する前に、忘れてはいけないこと、忘れさせられてはいけないことがある、それを肝に命じたい…。今回も、繰り言の一席でした。