「人口減少」を悲観しすぎると、知恵が止まってしまう/経済成長に対する人口の寄与は大きくない
権丈 善一: 慶應義塾大学商学部教授2025年12月24日これまでの労働条件では人を雇えないことが「不足」と呼ばれることもあり、巷間では人口減が労働市場を介して経済に悪影響を与えていく話が悲壮感をもって語られている。しかし私には、吉川洋氏(東京大学名誉教授)が『人口と日本経済』で述べた 「日本経済の将来は、日本の企業がいかに『人口減少ペシミズム』を克服するかにかかっている」 という論のほうが腑に落ちたりもする。というのも、経済成長に対する人口の寄与は、直感的に想像されるほど大きくないからである。ノーベル経済学賞を受賞したロバート・ソローは、1957年の論文で、アメリカ経済の長期的な産出増加を成長会計によって分解し、その相当部分が、労働や資本といった投入量の増加では説明できない要因によるものであることを示した。高度成長期の人口増の寄与はわずか0.4ポイントこの残差は「ソロー残差」と呼ばれ、後に全要素生産性(TFP)と呼ばれるようになる。日本の高度成長期においても、1960年代の実質GDP伸び率11.1%(年平均)のうち労働力で説明できるのは0.4ポイント程である試算もある(平成10年通商白書)。TFPが捉えているのは、労働や資本の投入量では説明できない、「同じ人数・同じ資本で、どれだけ賢く働けるか」という部分である。その内実は、狭義の技術進歩に限られない。新しい財やサービスの創出、規模の経済や範囲の経済の活用、工程や組織の改善による効率化、市場開拓、さらには人的資本の蓄積としての教育・技能形成など、制度・組織・人材を含む幅広い要素がTFPの中に集約されている。組織や制度の見直しによって意思決定の速度と質を高め、人材の能力やアイデアが中枢で発揮される環境を整えることも、TFPを高めるうえで重要である。こうした工夫の積み重ねこそが成長の原動力であり、労働力の「量」そのものが成長に与える寄与は、実は大きくない。となれば、人口が減少することが即座にペシミスティックな話なのか、という根本的な疑問が生じる。日本の人口構造の変化を「御神輿型」「騎馬戦型」「肩車型」といった比喩で語り、それを社会保障制度の「負担と給付のバランスの悪化」と結びつける議論が、通念として流布してきた。しかし歴史的事実をみれば、就業者対非就業者の比率は、おおむね1対1前後で推移している。比喩が示唆するような「多数の現役世代が少数の高齢者を担ぐ」構造は、実は、戦後に遡っても日本において確認できない。(「ライフスタイルの変化が年金の未来を明るくする」)それにもかかわらず、日本の生活水準は戦後から一貫して大幅に上昇してきた。つまり、労働力の量に主として依存しないかたちで成長が実現してきたという事実は、TFPを構成する複数の要因が、長期にわたり複合的に寄与してきた結果である。したがって、人口比率を単純化した視覚表現に依拠した通念は、生活水準と制度持続性の決定因子を取り違えているということになる。「支え手を増やせ」の危うさ2010年代半ばからしばらくの間には実際にそうした傾向が見られたように、労働力の量が極めて重要であるという発想に立つと、「支え手を増やせ」という議論が前面に出やすくなる。その延長線上で、医療政策の目的は健康寿命の延伸に置くべきであり、予防こそが最重要であるとする議論が強調され、やがては予防によって医療費を抑制できるといった主張が、次第に独り歩きしはじめる。しかし、この国では、こうした議論が一定の文脈を離れて一般化される過程で、往々にして行きすぎ、「生産に寄与できない者の存在意義を疑う」といった危うい方向へと傾きやすい。その結果、最終的には「病気は自己責任である」という発想へと飛躍し、ある種、攻撃的な世界観――すなわち、病気になった人や障害を持つ人々が生きづらさを感じざるをえない世界観――へと、容易に接続されてしまう。経済成長と生活水準を規定する主要因が労働投入量ではなく生産性であるという基本的事実を見誤ると、医療政策までもが道徳的責任論へと引きずられてしまうことになる。この点こそ、社会保障を論じる際に最も警戒すべき点だと思う。年金でもそうである。厚生年金は、より高い賃金で、より長く働けば給付が増えるように設計されている。その制度の下で「支え手を増やす」という言葉が広まれば、将来の「給付」側面が見えないままに保険料の負担という側面ばかりが強く意識されるようになり、いわゆる年収の壁を過度に信じて、生涯の資産形成に関する判断を誤る人が増えかねないし、適用拡大が「支え手を増やすため」と報道されることを招くことになる。年金を論じる際に「支え手を増やす」という表現を用いないよう言い続けてきたのは、年金は自分で作るものであり、厚生年金への加入は、誰か他の人のためではなく、自分の将来のためであることをわかってもらうためである。とはいえ、経済成長を「供給」から捉える立場の人々は、成長会計に基づいて労働と資本がフル稼働するとの前提に立つ潜在成長率の観点から経済を見ることになる。その枠組みに依拠する限り、労働力が減れば生産力も自動的に低下すると理解しがちである。しかし経済史は、現実の経済が必ずしも潜在成長率で説明される通りに推移してきたわけではないことを示してきた。むしろ逆である。人口増の寄与が少なくてなぜ高度成長できたのか労働力が減少しても、成長の芽が直ちに摘み取られるわけではない。企業が人口減少を過度に悲観するのではなく、新たなニーズを発見し、需要を創り出していくならば、生活水準が伸びる余地は十分に残されている。重要なのは労働力の「量」ではなく、労使双方の知恵と工夫の力である。「アメリカに追いつけ」を合い言葉とした高度成長期には、三種の神器(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)、新三種の神器(カラーテレビ、クーラー、自家用車)に代表される需要が次々と創出された。同時に、新たな生産方式や組織の在り方が導入され、経済成長を力強く支えた。今日、賃金の上昇局面を迎えて、「生産性の向上」の必要性が頻繁に語られるが、その中身が十分に理解されているかについては、やや疑問が残る。生産性の向上とは、単なる労働投入量の削減や効率化でなく、シュンペーターオリジナルに従えば、①新しい財の導入、②新しい生産方式の導入、③新しい市場の開拓、④原材料の新たな供給源の獲得、⑤新しい組織の創造——すなわちイノベーションは、労使双方の知恵と工夫によって実現する、いわばダイナミックな進化の過程そのものである。これまで日本では、安価で豊富な労働力が長く準備されてきたこともあり、イノベーションが後回しにされてきた側面がある。人口減の進行とともに労働市場が弛緩から逼迫に転換してきている。私には、諸悪の根源は労働市場、諸善の根源も労働市場に見えるが、構造的な労働力の希少性の高まりの中で、イノベーションが今まさに動き始めなければならなくなってきていると捉えるならば、日本の未来は決して暗いものではない。こうした経済史に根ざした思考のほうが、過度な人口減ペシミズムよりも自身の性分にしっくりと合う。そして、過度に悲観しない期待形成を通じて、投資判断において単に金利の水準だけで決まるのではなく、将来どの程度の収益が得られると見込まれるかという期待収益率に基づく投資を促し、その結果として社会全体をより健全な方向へ導く可能性を持つ。逆に、あらゆる不都合が人口減少に帰せられるようになると、成長の源泉が、知恵と工夫の力に支えられたダイナミックな変化にあるという本質的な認識は、いつの間にか視界の外に追いやられてしまう。そうした状況の下では、救済的論理が前面に出やすくなり、先駆けて動いた者ほど不利な立場に置かれるという、成長とは逆のインセンティブ構造が生まれやすくなる。「人口減少で悲観しすぎると、知恵が止まる」とは、そういう意味である。