みなさん、老いたるはモタモタすることなり。かつイライラすることなり。
わたしは音楽を、精神療法として、認知症予防、うつ病軽快のために聞いています。
セロトニンを増やしてもくれるが、しかし消費もしてしまう、ということが私の前頭葉のあたりで実感しています。
まあ好きは好きなんですが、老いたるひとびとと音楽感動を共にするというよりは、感動を吐き出すことでわがうちにあるセロトニンの新陳代謝を図ろうと、さまざまなメンタル動画の教えを聞いて、ここでぼそぼそと書いていきます。
今日は、10/12クラシック音楽館で放送された、フォビオ・ルイージ指揮N響の定期演奏会より、メンデルスゾーンの交響曲第四番『イタリア』の、感想です。
ルイージのアレグレットやアレグロは多くのクラシックヘビーリスナーにとって、速すぎていて、落ち着かないものだとも感じます。
とくにベト7の第四楽章は昔からいまもずうっと、楽団員泣かせの、超高速で、N響でないと弾けないのではないかとまで言われました。
そんなこんなで、イタリアの第四楽章もそうなるのは、第一楽章から織り込み済みで聞いていきましたが。
わたし、こういったらなんなんですが、もし、バッハのG線上のアリアをアレグレットでやられたら、そうとう面食らうと思うのですが、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲をテツラフが猛スピードで駆け抜けた演奏を二回聞いて、そのたびに、西洋人にとってテンポというものは、たとえ古典ガチガチなものでも、個人個人の裁量に任されていることを知った次第です。
つまり、結論からいうと、
ファビオ・ルイージはこの曲を鳩のような運動時間軸のなかで捉えていなくて、
『メジロ』の動体生理に近づけてまとめきった、と感じました。
留まっているときでもその機敏な動きは休むことなく、敵への警戒を怠りませんし、木々への飛翔は、うっかりすると、『見えません』。
しかし、時間をそのようなサイズでまとめあげているにも関わらず、音楽的抑揚を丹念に施しているのです。
これはメジロの身体能力に人間が追い付かなければ見落としてしまうものです。
そして、わたしは、老いということを考えました。
ファビオ・ルイージはもう65くらいになるかと思いますが、脳内、身体フィジカルが、同年代の指揮者より、俊敏なのです。
ですからN響定期などを聞きに来るひとびと、70歳以上のかたが多いと思いますが、
『人間生理的に聞き取れないのです。その音楽の細部が。』
わたしはルイージのこの『イタリア』を聞いていてまっさきに思ったのは、
これ、『ヴィヴァルディの冬』じじゃん!
ということでした。
とくに追い込むときのルイージの棒はあの『冬』そのものです。
とてつもないエネルジコです。
ということでルイージを聞きながら老いと向き合った、貴重な体験でした。
テツラフのメンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲