黙示録と死者の書 ⑤ 「創世記1章と死者の書」
【 序 】
過去記事で、「チベット死者の書(バルド・トゥ・ドルBardo Thodol)は、創世記冒頭からの数節をモデルにしている可能性が考えられる」と措定しています。
<創世記1章>
- In The Beginning 321 822/137
- Heavens 849 444/74
- 地earth ⇔ heart心
- 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
<バルド・トゥ・ドル>
ではなぜチベット死者の書は、創世記をモデルとしたのか?が問題となります。以下でその事を見てみます。
撮影 第53回神戸まつり 画像と記事は関係ありません
【 死者の書と人人唯識 】
唯識思想(人人唯識)では「一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識している。(wikipedia 唯識)」と説かれます。前世での死を経験した阿頼耶識が、冥界へ渡りそこでの審判を経て、今世へと転生してきます。そしてそこで自らの肉体だけでなく新たな世界をすべて生み出し、それを認識していると言う考え方が人人唯識だろうと思います。その阿頼耶識が生み出す世界を描いたのが、聖書では創世記2:4から始まる「主なる神による地と天から始まる造世物語」のように思えます。
・・・in the day that the Lord God made the earth and the heavens,
・・・主なる神が地と天とを造られた時、
では人人唯識では、今世で人が死んだとき、その人の阿頼耶識が造り上げた世界はどうなるの?と考えれば、その全てが崩壊し肉体を抜けだした阿頼耶識の冥界の旅が始まるように思えます。問題は人人唯識の「一人一宇宙」の立場を取れば、死んだ人の阿頼耶識が旅する世界も、自らが造り出さない限り何処にも存在しないと考えられる事です。あの世から今世へと輪廻転生してきた阿頼耶識が、今世における全ての世界を生み出したのと同様に、死んだ人の阿頼耶識も、冥界における自らの世界を生み出さなければならないはずです。
結論としては、チベット死者の書は、今世で死んだ人間の阿頼耶識が、その肉体を離れて冥界に渡り、そこで新たな世界を造り上げるという、「冥界での創世物語」でもある様に思えます。
