なんだかんだで

「お正月」 らしく

過ごしています。

 

 

 

大晦日、

久々に視聴した紅白。

 

 

紅白のあとの

「ゆく年くる年」で

テレビから鳴り響いた

新年の鐘の音を聴いた瞬間

 

 

ふるふるふるっ、と

胸の奥で震えて

こみあげてきた、涙アンテナ。

 

 

 

我が家を

いつも見守ってくださっている

どなたか視えない方が

「新年」を寿いでくださったのを

 

 

目にも視えず

耳にも聴こえなくても

 

 

ハートはしっかりと

聴いてくれていました^^

 

 

 

 

翻訳するとしたら

ごくシンプルに

 

「明けましておめでとう」

 

と言ってもらえたのかな?

っていう感じなのだけれど。

 

 

 

 

でも、私たちが親しい人たちと

儀礼的な挨拶として

「明けましておめでとう」を

交わしたところで

 

 

(もちろんホッコリと

おめでたい気は

すると思うけれど^^)

 

 

たいていは

涙がこみあげてくるほど

心が動くってことはないよね。

 

 

 

 

こういうとき

やっぱり、高次元のスピリットの

ダイレクトなエネルギーに

感心します。

 

 

 

ほんの一瞬の祝福の中に

 

限りなく純粋で

深く強い真意としてのそれを

届けてくれるのですよね。

 

 

 

そんなエネルギーを

受け取ったからか

 

 

「新年」を迎えられる

ということは

 

 

永らえて行く命や

私たちという存在が

「恵まれたもの」であり

 

 

けして当たり前のことではなくて

貴重でありがたい瞬間の

積み重ねなのだと

 

 

そのことを感謝し

祝わずにいられるだろうかと

 

 

私が新年を迎えたこと。

大切な家族もそうであること。

 

 

親戚や友人たち…

 

 

同じ鐘の音を聴き

新年を迎えた

全ての人々がいるということ

 

その人々が存在し

生きている「世界」があるということ

 

 

ただただ、ありがたい…と

幸せだ…と。

 

 

そういう想いが

自然と胸に満ちました。

 

 

 

 

古来より、節目、節目を

大切にして感謝し

祈りをささげてきた人々を

 

ふと愛おしくも感じた。

 

 

 

「今、ここに自分がいること」

そのものに

感謝し、真に祈れる心は

 

 

さやかに光り輝きながら

世界に優しくふりつもり

 

 

いつか来る明日の内包する

希望の灯りの素になるような・・・

 

そんな心地がします。

 

 

 

きっとこの先も

どんな時代であろうと

人々は、新年を

祝い続けてゆくんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2日は三重の義実家を訪れて

お義母さんのお節を

ご馳走になり

 

 

近所の小さな神社に

お参りして

おみくじを引きました。

 

 

 

 

私たちが遊びにゆくとき

義父母はいつも

「苺」のパックを

買ってくれています。

 

 

ぽよくんが小さな頃

「苺」が好きだったことを

ずっと覚えてくれているのです。

 

 

 

 

毎回、帰りにも

オカズやら野菜やら

おやつやら

色々持たせてくれて。

 

 

 

けして今どきの

洒落た手土産とか

そういうものではない

 

ふつうにそのへんでも買える

一貫性のない

色んなものたちが

 

こちゃっ!とスーパーの袋に

詰め込まれてる感じがさ

 

 

イイよね。笑

 

 

 

義母の家庭菜園から

ひっこぬかれたばかりの大根が

 

新聞紙に包まれていて

菜っ葉が袋から

あふれ出てる感じとかも

 

 

イイよね。笑

 

 

 

じんわりと胸に響きます。

 

 

 

義実家の小さなリビングの

ホットカーペットの

ほかほかの気持ち良い温もりが

 

 

いつまででも思い出せるようです。

 

 

尻があったかいって

至福の一つ。