自分を開示するようになってから

友達が増えた。

 

 

友達の中に

針(はり)と玻璃(はり)の刺激がある。

 

 

自分が抑圧しているものを

ちくちく刺激してくる

少し、痛い針の刺激。

 

 

吸い込まれるように

魅了される

美しく純粋な玻璃の刺激。

 

 

いろんな友達の中に見る

 

 

いや。私には、わっかんねぇな。

なんでそういうことするんだろ?

 

 

と思うことも

 

 

なんて素敵なんだろう。

すごく良い。と思うことも

 

 

どちらも

 

「私が何を嫌い、何を好むのか」を

教えてくれる。

 

 

「私がどれだけ傲慢で

何を磨いてゆく必要があったのか」を

思い出させてくれる。

 

 

友達の刺激が

いつも

 

「私って、こういう人」を教え

 

再構成させてくれる。

 

 

針も玻璃も

ありがとう^^

 

 

その刺激を

大切にしたい。

 

 

久々に声を聴いて

 

打ち明けてくれた話を聞いて

 

 

相手が、

ほしがってるだろうからって

 

「話に合わせて」の

相槌じゃなくって

 

って

 

本心から

 

『あるよね。わかるよ』

 

って言葉を

渡せるときって

 

とても気持ちが良くて

楽しいんだなあ。

 

 

そんな風に感じた、

そんな時間が

 

昨日あったよ。

 

 

 

その子が

すこしでも

元気になっていくのが

わかって

 

嬉しかった。

 

 

 

ツボが似てる友達。

 

 

 

その子は

私がまだ

知らないものを知っていて

 

私は

その子がまだ

知らないものを知っている。

 

 

私は誰からも

 

ただの「好き語りの欲」の

処理マシーンには

されたくはないし

 

そうなるつもりもないけれど

 

でも、きっと

その子は私に合うものを

知っている。

 

 

『私に合いそうなもの』を教えて?

 

私もきっと、そうする。

 

 

そうして

交換しあうものは

 

お互いの感性を刺激する

なんらかの起爆剤になったり

 

新しい「種」になる。

 

 

その子と話しながら

 

改めて

 

自分の「好き」は

いつも

「表現の世界」に

関わっているって

 

実感した。

 

 

 

「自分を表現しようとしている人」

が好き。

 

「自分のまなざし」で

見出したものを

 

「自分の言葉」で語るひとが好き。

 

 

誰かの発見や気づきや

表現を

安易に借りてきたり

 

コピーして

 

自分のものにしちゃうのは

 

するのもされるのも嫌い。

 

 

 

いい子ぶって

 

わからないふりで

逃げ道を作りながら

 

誰かの言葉の

安全な背後で

 

誰かの言葉を

後ろ盾のようにして

 

わたしもそう思ってました!と

 

声を上げるのも嫌い。

 

 

どんな時も

いつも

 

「自分で」勝負しろよ。

 

って思ってる。

 

 

 

「余韻」のあるものが好き。

 

 

 

誰かや何かの受け売りがベースの

 

美しくて軽やかなだけのものには

口あたりのよい

心地よさは

 

あるけれど

 

印象がうすい。

残らない。

 

 

安易にうみだされた

その場限りの心地よさなんて

 

今は、なんか、どうでもいいな。

って思った。

 

 

本物を見せてよ。

 

って思う。

 

 

 

言葉には、美しさも

軽やかさも必要だけれど

 

同時に、

 

「泥臭さ」も「重み」も

絶妙なバランスで、

 

入らなくては

深みがでない。

 

そう思ってる。

 

 

これまでに積み重ねてきた

心の痛みや切なさや悲しみを

 

自分で受け止めて

言葉にしたとき

 

そこには「実感」がこもり

 

「実感」がこもっているものは

人の胸に残る。

 

 

どんなにインパクトの強い言葉を使っても

理路整然と、わかりやすく語っても

 

自分の中に実感のないものは

 

誰かの心の表面を

うわすべりしてゆくだけ。

 

自分とおなじ。

「わかったつもり」にさせるだけ。

 

 

 

どんなに表現が抽象的で曖昧でも

 

自分の中に実感として抱いている

ものを言葉にして

渡すとき

 

かならず、向けた人の心に

言葉以上の何かを残してゆく

 

説得力がある。

 

小さくも大きくも、

何かをつき動かし、変化を促す

 

そんな刺激があるものよ。

 

 

 

それが余韻であり

 

「言霊」(ことだま)の力

 

なんでしょう?

 

 

 

結局のところ、

 

私がこのブログに

ほんとうに綴りたいことは

 

「ありのまま」の気持ちを

深部からも丁寧に取り扱って

 

そのときどきの表現手法で

 

真摯に、あらわしていくしか

ないんだ。

 

と、思ったな。