ネコ先生のプロジェクトXL
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『ツタンカーメンは硬麺だす』ってコト

最近、大阪で開催された、ツタンカーメン展。

ネコはこれに行きたいのじゃ!!
今は人がたくさんいるからイヤだすけどねっ。



ネコにとってのツタンカーメン展は、半分は趣味、半分は仕事みたいなもんなんだす(>_<)



久しぶりのブログにも関わらず、マニアックなお話ですんません。



そういうのが嫌いな人は、ここで日記を閉じちゃいましょ。

今日はいい天気だす。

また遊ぼうね、アデュー(^O^)



かつてのエジプトってのは、小高い丘くらいであとはほとんどが平地、そして文明を育んだナイル川があるばかりだすよ。


つまりは遮るものがないために、『太陽が昇って、また沈む姿』が毎日ハッキリと見えるってわけで、それを見てた当時の人々は、「太陽って、毎日死んで、生まれ変わってるんや!!」って勘違いしたそうな。


そこから、死と再生を基本とした太陽信仰がはじまりますた。


毎回決まった場所から生まれて、決まった場所に死んでいく太陽なんだから、エジプトの信仰と文化においては、『方角』ってのが、すごく敏感に意識されているんだすなぁ(色もね)


たとえば、エジプトの神や王の彫刻(立像)は、けっこうな割合で『左足』が前に出されているんだすどね。(あ、死者や、死を司る神は両足を揃えています。)

女性の像では、ほとんどが左足を出していない。
(ネコが知りうるかぎり、女性の像で左足を前にしている像は、女帝だった1人しか知らないだす。)



なーんでか?
諸説はあるんだけど、一番わかりやすいのが・・・・・・。


じつは『エジプトの立像ってのは、顔の方が正面でなくて、像の右側から見た姿が正面』ってのが有力な説なんだすよ。



するとね、イメージしてみてくだはい。



像を右側から覗いたら・・・反対側の左足と左手が、見えなくなるでしょ。

当時のエジプトの人は、見えない部分ってのを嫌う(見えない部分があるのは、死んだ者)ので、右側からみても全部のパーツが見えるように、左足や左手を出したみたいだすよ。


つまり、古代エジプトの彫刻を見る時には、『像の右側が本当の正面』だと思って見ればいいのだすよ。



でも、なんで『右側が正面』なのか?


それは、その時代において「右側が左側よりも神聖なもの」って考えがあったから。

だから、彫刻だけでなく、当時の絵でも、偉い人や神様は必ず右側に描かれているだすなぁ。


どうしてだと思います?


はい、じゃここで、ちょっとこのブログを読むのを止めて、正解を自分で考えてみましょー(^O^)






~~~正解?は、コチラ~~~


方角に敏感なエジプトの太陽信仰。
右側ってのは、『東』を現わしています。

東は太陽の昇る方角。つまりは再生と繁栄を現わしているんす。
だから、偉い人の彫刻は常に右側を正面に見せるし、絵では右側に偉い人を置く。



なんとなく、わかったでしょ(^_^)
(違う説もあるけど、今回はそんなのやめときますー。)



ちなみに、ミイラを作る時は、左の脇腹から内臓を抜いていくって決まってるそうな。

左は、死を現わす西・・・・だから左脇から、そんな意味も込められているのかも知れませんねぇ~(^^)




どんな文明も、最初は、ある程度共通点の多い「シャーマニズム」からはじまります。

そこから変化し派生され、巨大化する各地の「文明」と「宗教」という概念。

これには、言葉や文字の発明が欠かせない。
昔の民族は土地ではなくて言葉の違い(語族)で分類するのが基本ですしね。

さらに、それ以前にある『農耕・牧畜』の獲得による、動物としてのヒトからの脱却と文明の萌芽。

『動物としてのヒト』と『文明人』の乖離的な視点から始めると

『自我』についてなんかは、自然とフロイト的な発想に帰結していることに気がつくんですけど




「では、例えば『罪悪感』はどうなんだろう?」とか

「誰も見ていなくてもゴミを拾う行為の意味」とか



脳でいうなら前頭葉の発達という進化の意味がどこにあるのかと


・・・まぁ結局、答えはでないんですけどねぇ。


ここらへんは、外せないものだと捉えているんですが、その『生』の感触を少しでも味わうためには、やっぱりその時代の物に触れないといけないと思うんすよねー。



行きたいなぁ!ツタンカーメン展

まぁ、1人でテンションが上がってブツブツ言ってる姿は、あんまり人には見せられないですが(-_-;)

機会ができたら、いっそ1人で行って、充分に浸ってみたいと思ってます。



話は変わりますが・・・・



先日、そのツタンカーメン展開催中の場所を違う理由で通りがかったんだすがね。




近くのラーメン屋に本当にありましたよ。



『ツタン・ラー麺』



大阪人にかかれば、紀元前の歴史も粉モンに変わるんやなぁ。



おっし!!

『ロマンチックのススメ』ってコト

おっし!!

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ネコ先生だすよー。




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公演が終わり、友人たちと絶賛交流期間中だす。

もうしばらくしたら、また外大前か、大阪にしか姿を現わさないようになるかもなので、お早めに(笑)。


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体力も随分と衰えたので、MMA復帰のためのリハビリもそろそろはじめます。


最近、ネコが思っていたことは、「やっぱり脳は、全てに『意味』をつけたがるんだな。」ってことです。



それが形を変えて『思い出』になり、『哲学』になり、『宗教』になり、『自分の物語』になり・・・総じて『ロマンス』になるんだなぁっ、と。


つまりは、過去に起こった『事象』は事実や真実として記録されることなく、後付けと味付けによって『意味』に転換され残ります。


眼の前で自分の予測不能なことが起きた時、混乱した人間の思考は停止する。
もしくは思考活動が亢進し過ぎて、オーバーヒートを起こしたような状態になります。


しかし、時間が経つにつれて「あの時の事件は、こういうことだったのだ。」「きっと、こんな意味があったのだ。」「あの人のあの行動は、じつはこんなメッセージだったのかもしれない。」と、自分の中で都合をつけながら消化され化学変化を起こしていくのです。



冷静になってみれば、現象が終わってしまった後で、いくらその時のことを反芻しても、環境はまったく変わらないと理解できるでしょう。

なのに人間は、過去を反芻して、熟成させて、加工を加えて、化学変化を起こして、『意味』を自分で見いだしていく。


言い換えればロマンス(意味)は所詮、自ら勝手に創り上げた幻想です。 淡白で冷静な現象とはかけ離れた、ご都合主義の産物です。
自己満足に近いものがあります。

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しかし、それがあるからこそ、人間は厄介な機能に折り合いをつけながら生きてゆけるのではないでしょうか?


僕が、人間が勝手に色づける「ロマンス」という不思議な感覚について考える時、ニューエイジサイエンスの代表ライアル・ワトソンの晩年の著書にある、年老いた象と鯨との邂逅をイメージさせます。

偉大なるグランドマザーと大海の主とが、低い共鳴音で会話を交わす驚くべきシーン。

本当に会話をしているのか?呼応してるのか?
はっきり言って、まったく勝手な解釈でありわかりません。
でも、その風景を見ているライアル・ワトソンには、紛れもない確信とともに感動が走り抜けたのでしょう。

じつは、彼らの行動自体が感動的なのでなく、彼らの行動に感動しているワトソンの心そのものが感動的なのです。

この世界は、地味で、面白味がなく、灰色に見える?
果たしてそうでしょうか?

世界の事象は不動不変です。
変化しているのは、ロマンスを創り上げる機関を持った、我々自身です。
灰色の世界は、灰色のロマンスを描く、己が内にあるのではないのでしょうか?

そう思うなら、自分の周りの世界を変えることなんて、案外簡単なのかもしれません。


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ロマンチックに、なりゃいいんですよ。



と、いうわけで、随分とロマンチックという空想に支配された男性


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『本所 武雄』を無事?に演じ切りました。

とても有意義で勉強になる公演でしたよ。

舞台に足を運んでくださった方々には深く感謝したします。

そして!!

来月の21日~22日には、まったく違った役柄で舞台に立っているだすよ。

詳細はまた後日。

しばらくの間だけ・・・バイバイだす武雄さん。

おっし!!

『まぁ要するに、テンションが上がった』ってコト

友達たちとの楽しい酒が終わった後。
また別の友人に久しぶりの挨拶だけでもと、隠れ家のようなカフェに出向きました。



日付が回る頃、扉を開けると、京都では珍しいくらいの大雪。



身体を撫でるそれが、思っていたよりフワリとしていたので、ボクは迷わず自転車に乗り込み、バランスが辛うじて取れる程度のスピードで雪を切りはじめました。



白で囲まれた町は、驚くほどに明るくて、「色が変わるだけでこんなに世界は違って見えるのか?」と、見慣れない刺激に、好奇心で落ち着かない自分の右脳のワガママに、左脳で呆れました。


街灯に映し出された路面は、まるで映画のスクリーンのようにボンヤリと輝いて、そこに降り注ぐ雪の影が、くっきりと浮かび上がっています。



そのいびつな影は、白黒の無声映画の動きに似ていた。



信号待ち。


通りすぎる車を見ると、突然の雪に何の用意もしていなかった彼らは、いつもの無遠慮なスピードを控えて、まるで屋根に卵を載せて運ぶくらいのスピードで横切ります。


その速度が、ちょうどボクが好きなパペットアニメーションで見る車と同じくらいで、現実離れした感覚に、ボクは青信号を2回も逃して、過ぎ去る車に見惚れてしまったのです。



あぁ、そうか。



今ボクは、不器用で、優しくて、そして・・・ちょっと歪んだ、アニメーションの世界にいるんだ。


そんな感覚(勘違い)に嬉しくなって、思わず鼻歌なんかも出ちゃいます。



まだ誰も通っていない白の道。

そこに、ボクがつけた二匹の蛇の軌跡を知りたくて、後ろを振り向いた瞬間。

タイヤが滑って、派手に転びました。



唇に当たる雪は

氷よりは、尖ってなくて

かき氷よりは、あっけないわけでもなく

結晶の分だけ、幾許かの抵抗を残して、ボクの体温で溶けてゆきます。



「雪なんて、本当は大気の汚いものを、ぜーんぶ絡めて落ちてくるんだよ。きっと動物のオシッコとかも混じってるさ。」

そう教えてくれたのは、誰だったかな?


冷たい道路に寝そべって、口を半端に開けているボクは、「いっそ世界の塵芥、ゾウもライオンのオシッコも、ぜんぶ入っちゃってもいいや」って、『純潔』が『正義』と思わなくなったぶん、少しは素敵な大人に近付けたと感じていたのです。


いつもより「冷たく」て

いつもより「優しい」京都が

切り取ったような時間にありました。




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