東京神田の秤屋で奉公している小僧。寿司への憧れから立ち食い寿司屋に入ってみるが、値段を聞いて一貫も食べられずに店を出る。

その一部始終を、若い貴族院議員の男が見ていた。男は小僧に同情し、奢ってやるべきだったかと考える。しかし同時に、それもまた冷や汗ものだと思った。

後日、男は偶然、立ち寄った秤屋で先の小僧に再会する。小僧の方は男に気付かない。男は秤を買い求め、小僧に車を停めてある場所まで運ぶよう頼んだ。連れ出して、先日してやれなかった代わりにどこかで御馳走してやろうと考えたのだ。

男は小僧を連れて横町の寿司屋へ向かった。そして、店の女将に話をつけると、小僧に「私は先に帰るから、充分食べておくれ」と言い残し、逃げるように帰宅した。

帰る道すがら、男は変に寂しい気がした。人を喜ばすことは悪いことではない。自分のしたことに満足していいはずだ。しかし、変に寂しい、いやな気持ちがする。男は、それが、人知れず悪い事をしたあとの気持ちに似ていると感じた。

一方、小僧は男の計らいを喜び、三人前もの寿司を平らげ満足だった。先日恥をかいた立ち食い寿司屋での一件。その直後、自分に寿司を奢ってくれた男。この妙な因果に不思議を感じた。不思議さが大きくなるにつれ、あの男は只者ではないという思いが膨らんだ。自分の心を見透かし、密かな望みを叶えてくれた人。とても人間業ではない。神様か、仙人か、お稲荷様かもしれないと思った。
辛いこと、悲しいことがあるたびに、小僧は男を思い出して心を慰めた。いつかまた彼が現れて、思いもよらぬ惠みをもたらしてくれるのではないかとさえ思った。

作者は、ここで唐突に物語を終わらせる。
正体を確かめたいと思った小僧が後日台帳にあった男の住所を訪ねると、そこには祠があった。小僧はびっくりした。そういう顛末を用意していたが、それは小僧に大変残酷な気がしてやめておく。そういう断りをつけて、作者の筆は置かれている。




男を襲った後ろめたさ。よかれと思ってやったはずの行為に、実は偽善的な要素が含まれているのではないか。これは、多くの人が考えたことのある問題だろう。

たとえば、ユニセフに募金する。被災地に支援物資を送る。病に苦しむ友人を励ます。人生のさまざまな場面で、誰かを気の毒に思うたび、手を差し伸べようとするたび、得も言われぬ居心地の悪さを覚える。

誰もが「施し」の裏側にある「偽善」に気づき、それを恥じているのだ。人間が自我から逃れられぬ存在である以上、他人を喜ばせることと、それによって自分自身が満足を得ることは、常にセットだ。


しかし一方で、こう考えることもできるはずだ。
男の行為は、小僧にとっては単純に有難いことだった。男の後ろめたさとは無関係に、寿司は小僧の腹と心を満たした。そうだとすれば、小難しく考える必要などあるだろうか。上から目線だろうがなんだろうが、相手が喜んだならそれでいいじゃないか。


ところが作者は、小僧が喜んだ、そのことこそが問題だと考えている。 
小僧の中で男の善良性は肥大した。想像以上に喜び、想像以上に期待をし、それはついに男を神格化するまでに至った。ほんの出来心でなした施しが、他人の人生にがっつり影響を与えてしまったのだ。

この世には神も仏もいない。助けてくれる人などいない。自力でどうにかするしかない。そういう生きるための現実的な覚悟を、もし小僧から奪ってしまったとしたら、男のしたことはやはり残酷なことだといえるのかもしれない。

つまり、施しが偽善となりうるのは、それが上から目線の傲慢な行為だからではない。最後まで責任を取る覚悟もない軽い気持ちでやったことが、相手に想像以上の期待を与えてしまう可能性を孕んでいる。そこのところが「偽」の根源なのだ。


ここからは完全な妄想だが、作中の男は作者自身なのではないかと思う。というのも、作者は生前、「小説の神様」と呼ばれていた人物なのだ。本作が発表されたのは大正九年、作者三十七歳の時であったが、その頃すでに確立した文壇的地位を有していた。

そんな彼が、駈け出しの作家の作品を褒めたとしよう。

「君の作品、よかったよ」

何気なく放った一言。励まそうとして言っただけかもしれない。あるいは、単なる労いの意味しか有していなかったかもしれない。しかし、言われた相手は舞い上がる。志賀直哉に良いと言われることは、作品の評価として物凄いお墨付きを得たも同然。作者の一言には、まさに神様の力があるのだ。

作者は、そんな自分の影響力に困惑していたのではないだろうか。いい気になって手を差し伸べることは幾らでもできる。しかし、安易に施せば、いらぬ期待をさせてしまうだけかもしれない。軽々に他人の人生に関わってはいけない。本作からは、作者の自戒が見て取れるような気がするのだ。


偽善という問題は実に難しい。偽善というからには、対置されるべき「ホンモノの善」というものがあるのだろうか。純粋で、完全な、正真正銘の「善」・・・思いつかない。多くの場合、善悪は表裏一体だ。ある行動をとった場合、それがひとえに良いことだけをもたらす、あるいは、ひとえに悪いことだけをもたらす・・・そんなことがあるだろうか。

この問題はきっと、極論によっては解決しない。たとえ偽善でも、それがもたらす「善」もあるはずだ。短絡的に、皆が一切の偽善を捨ててしまえば、世の中がギスギスするだけだろう。

なかなか答えの出せない難しいテーマだけに、本作は時代を超えて読まれるのかもしれない。






ブログ村ランキングに参加しています。応援クリックおねがいします。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村