Japan's Neuclear Future: Policy Debate, Prospects, and U.S. Interests(pdf注意)より
Part1からの続き

序文

 日本の核兵器開発に対する通念は、特に日本国内で長い間あり得ない事と考えられており、タブーと同一視されてきた。国際的核拡散防止体制の歓迎すべき成功例である日本は、核拡散防止と軍縮問題に対し一貫して原則に基づく立場をとっている。第二次大戦終戦間際の原子爆弾によって破壊された広島と長崎の記憶は、日本国内において長く尾を引いており、いかなる核能力も多数の平和主義的市民にとっては、道徳的に受け入れがたい物であり拒絶され続けてきた。日本を包含する合衆国の『核の傘』の下、合衆国政府の定期的な反復により日本の安全は保障されている。歴代の日本内閣と議会は、核武装能力の追求をしても、自国の安全保障にとって得る物は少なく失う物が多いと結論してきた。

 今日、日本の当局者と専門家による、短中期的に核保有へと動く事は考えられないとする彼らのコンセンサスは、非常に均質なままである。しかしながら安全保障環境が著しく変遷し、核開発に関する話題はもはや有毒ではない物として、数人の指導的な政治家によって切り出された。北朝鮮による2006年の核実験と中国軍の近代化は地域の戦略的力学的関係を変え、日米同盟間のいくつかのストレスサインは、合衆国の安全保障の堅牢性への疑問を惹起している。タカ派が優勢な保守派の動向 ─ 日本は独立して核保有すべきと公然と主張する一部の論者 ─ は、日本の政界でより多くの求心力を得ており、許容範囲からより影響力のある位置へと移った。その上、かつての安全保障関連のタブーは、ここ数年において克服されつつある:日本の軍備及び人員のイラクとアフガニスタンへの派遣や、日本の防衛庁の省への全面的な地位向上、そして日本と合衆国によるミサイル防衛システムの共同開発など。これらの全てが、未だ見込みがないと思われている、日本における核兵器の位置づけを再考するという可能性を高める要因となる。

 どのような形であれ、日本の核兵器放棄政策の再考は、合衆国の東アジア政策に対する重大な影響をもたらす。世界的に考えても、日本の核拡散防止条約(NPT)からの脱退は、もっとも耐久性のある国際的核拡散防止体制へ打撃を与える事となる。地域的に考えると、日本の『核武装化』は中国や韓国、そして台湾における核軍拡競争への起爆剤となりえ、それによってインドやパキスタンは自国の核武装能力のさらなる強化を強要される事となるかもしれない。二国間関係に絞っても、日本が合衆国の支持なしに意思決定を行うならば、その動きは日本を防衛する合衆国の関与に対する、日本政府の信頼感の欠如を示している可能性がある。日米同盟の弱体化は、新たな覇権主義的大国としての中国の地位の強化へと変移し、東アジアの地政学的バランスを覆す可能性がある。これらの悪影響は、アジア太平洋地域及びその以遠の安全保障に、深刻な不安定化をもたらす可能性が高い。

背景

 核兵器と核拡散に関する日本の戦後政策は、軍用核開発計画を公式に否定する物である。日本の陸海軍は第二次大戦中にそれぞれが核兵器研究を行っていたが、どちらも十分な開発用の資源を得る事が出来なかった(※1)。1970年代初頭に日本は自力での核兵器開発に必要な、技術的・産業的・科学的資源を既に獲得していた事実にも拘らず、日本は政策において核兵器開発の否定を繰り返し述べてきた。

 第二次大戦後の合衆国の『核の傘』と安保条約に対する依存が、日本の反核兵器方針を複雑な物にしている。1952年と1960年に調印された相互協力及び安全保障条約の条項の下、日本は安全を保障される見返りに、合衆国が日本国内に基地を置く権利を認めている。日本市民の核兵器に対する拒絶反応は、実際的な理由よりもむしろ、道徳的な理由から圧倒的に推し進められているように思える。しかし日本の指導者達は、合衆国が保有している核を核武装否定政策の基盤としている。

 1955年制定の『原子力基本法』はその問題に対する国内法の基盤となっており、日本の核開発事業が平和的目的に限定して運営される事を要求している。1967年に『非核三原則』は、日本において核兵器を持たず、作らず、持ち込ませずという尊重されるべき原則として、佐藤栄作首相によって発表された。日本が1976年に核拡散防止条約(NPT)に批准した際、非核三原則を繰り返した上で条約義務の下に非核武装の立場へと自らを置き、核兵器を生産も購入もしない事を誓った。それ以来、日本は常に忠実かつ堅実なNPTの支持者であった。

 数次にわたって繰り返された日本の非核的立場にも拘らず、一般に戦略的脆弱性を意識した時、この慣行は幾度も疑問を呈されてきた。恐らく最も顕著な出来事は、1960年代半ばに起きている:合衆国がベトナム戦争を戦っていた1964年、中国が初の核兵器実験を行った。佐藤栄作首相は数人の研究者に、日本の核装備の可能性における費用と利益の研究調査を提出するよう秘密裏に依頼した。これは、『1968/70内部報告』と呼ばれている(※2)。日本の核オプションのもう一つの秘密調査は、1994年の北朝鮮による核危機と国際社会におけるNPTの不明確な拡大検討を受け、冷戦後の環境における自国の新たな地位を評価するため、1995年に日本防衛庁(JDA)により行われた(※3)。双方のレポートは米国の安全保障に日本は頼り続けなければならず、核兵器の開発はその関係を脅かすと結論付けた。

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※1:優先順位は生物・化学兵器計画の上に置かれた。Kurt M. Campbellと春原剛。Campbell, Einhorn, Reiss, eds.共著『The Nuclear Tipping Point(2004年Brookings Institution Press社刊)』の『日本』より。米国科学者連盟ウェブサイト:http://www.fas.org/nuke/guide/japan/nuke/
※2:『The Costs and Benefits of Japan’s Nuclearization: An Insight into the 1968/70 Internal Report(日本の核装備の費用と利益:1968/70年内部報告に対する洞察)』Yuri Kase著。The Nonproliferation Review。2001年夏発行。
※3:『日本の核保有、国益にそぐわず 防衛庁が内部報告書』朝日新聞2003年2月19日 (訳者追記:ここで読めます)

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(Part3・進展するアジアの安全保障環境に続く)