平成29年10月25日(水)
慶応四年・西暦一八六八年から平成三十年・西暦二〇一八年まで百五十年だ。
即ち、明治維新から百五十年が経過した。
そこで、この百五十年間を長いとか短いとか回顧するだけではなく、
太古と明治維新と現在との連続性、
つまり、戦前と戦後の連続性を確認するための節目としての
明治維新百五十年をとらえることが、今、必要と考える。
つまり、作家の司馬遼太郎氏流の、
「この国」には、昭和とも現在の平成とも全く違う
「明治という国家」があったと捉えるのではなく、
我が国は、神代から、断絶の無い一つの連続した日本である、
と捉えた上で、
明治維新を見つめていきたい。
では、我が国を連続した一つの日本と捉える要(かなめ)は何か。
それは、天皇である。
万世一系の天皇を戴く国が日本である。
よって、天皇が天皇となられた「天照大神の天壌無窮の神勅」から、
現在まで万世一系の天皇がおられる日本に断絶はないのだ。
このこと、人類の「輝かしい自由と平等のフランス革命」や「プロレタリア革命」という「偉業」に、容量の少ない頭を振り回された
我が国の戦後の思想家や東京大学教授が、
明治維新をフランス革命なみに捉えようとしたり、
昭和二十年八月十五日の終戦の日に架空の
「八月十五日クーデター」
があったような嘘を教科書に書いているので、特に指摘しておきたい。
また、最近は、明治維新を、
戊辰戦争に勝った薩摩や長州の側からみるのではなく、
徳川幕府十五代将軍徳川慶喜と戊辰戦争で敗れた会津藩などの佐幕派の視点からの再評価が開始されたように見受ける。
確かにこれは重要な視点である。
しかし、勝った薩摩や長州の側から見ようと、
徳川慶喜と負けた会津の側から見ようと、
その中心に屹立するのは揺るぎない「天皇の明治維新」である。
そこで、薩摩・長州や会津からではなく、
「天皇の明治維新」という観点から象徴的な具体的問題提起をする。
それは、靖国神社の大鳥居から二の鳥居の間の中央に立てられた
大村益次郎の銅像のことだ。
明治天皇が創建された靖国神社の中央に
長州の大村益次郎の銅像がふさわしいのか。
私は、大村益次郎の銅像は横にどけるべきだと思う。
そして、あそこには、
江戸を救って明治維新を明治維新たらしめた、
戊辰戦争で敵味方に分かれた三人の明治天皇の忠臣、
勝海舟と西郷隆盛と山岡鉄舟の像を建てるべきだと思う。
勝と西郷と山岡は、慶応四年三月十四日、江戸無血開城という盟約を成し遂げた。
これは、世界において画期的なことであり
天皇を戴く我が国でしか起こりえない盟約である。
また、異民族の殲滅を目的とする支那の孫子の兵法思想や
欧州の兵法思想からも起こりえないことである。
この江戸無血開城は、軍事(兵法)の目的を
天皇のもとにおける「和」をもたらすものとする
我が国の伝統的兵法思想(これを記したのが「闘戦経」)のもとで成し遂げられた。
彼ら三人は、それぞれ幕臣と薩摩藩士であったが、
ともに天皇のもとにおける「和」を目指したのだ。
これによって、彼らは、当時の世界最大の都市である江戸における
勝海舟が漢詩で謳った「百万髑髏と化す」凄惨な市街戦を回避したのだ。
江戸の平穏はこれによって確保された。
大村益次郎は、この画期的な江戸無血開城が成ったあとの、
上野という限定された地域における一部幕臣の小決起を平定しただけである。
江戸無血開城は、
幕府軍が弱いから成った単なる世界の何処にでもある「降伏」ではない。
徳川慶喜に幕府の陸軍総裁に任命された勝海舟のもとに、
フランス陸軍教官ら数名の士官が面会に来て
「われわれがこれまで訓練してきた優秀な士官兵隊を率いて戦えば必ず勝つ。
われわれもこれまで教育したところを実戦で試してみる。実に愉快ではないか。」
と迫ってきた。
勝は彼らフランス軍士官を返して、
直ちにフランス公使のロセスを訪れ、
我が方針は恭順であると告げる。
すると公使のロセスは、不思議な面持ちで、
「どうしてこのような優勢な兵力があるのに戦わないのか、戦えば必ず勝つ」
と勝を説得してきた。
このロセスと別れた勝は、
イギリス公使のパークスと書記官のサトーに会い、
西郷との談判が決裂して戦争になった時に、
徳川慶喜をイギリスに亡命させるために
横浜にあるイギリス海軍の軍艦アイロンディック号を品川に回航しておいてくれと頼む。
そして、次に、
ナポレオンに侵攻されたロシアが
首都モスクワを焦土として対抗した先例に従って、
江戸の大焦土作戦の準備を整えた。
つまり、勝は、火消し、博徒、鳶職、運送のそれぞれの親分衆を集め、
莫大な金を握らせて、
いざとなったら火をつけて江戸を焦土にしろと命令した。
その勝が使った大金は、
同じく徳川慶喜に任命された幕府の大久保会計総裁が出した。
さらに、勝は大久保会計総裁が出す金で、
房総の船をことごとく借り上げて江戸に集結させ、
江戸市民が速やかに千葉や神奈川方面に退去できるようにした。
その上で、駿河にいる西郷に山岡鉄舟が死ぬ覚悟で会いに行くのである。
勝も死ぬ覚悟で、江戸で西郷一人を待った。
果たして、西郷も一人で勝に会いに来た。
そして、三月十四日、江戸無血開城の約が成った。
後年、勝も山岡も、
この時の状況を回顧して人に語るとき、
目に涙をたたえるのが常であったという。
このようにして、
天皇の国であるという
敵も味方も共にもつ日本人としての確信に支えられた相互信頼によって、
江戸は無血で開城された。
その結果、内乱としての戊辰戦争の犠牲者は、
最小限の約八千二百人に止まった。
これは、十年後の西南の役の犠牲者一万四千人を大幅に下回る。
また、同時代のアメリカの南北戦争の犠牲者は約八十二万人であり
フランス革命の犠牲者は百万人を超える。
やはり、天皇の国において世界的に画期的なことが起こったのだ。
この江戸無血開城の前年の秋、
徳川慶喜は政治を天皇に返還する「大政奉還」を行い、
次に同年暮れに朝廷は「王政復古の大号令」を発して、
神武創業の古(いにしえ)に戻ることを宣言した。
天皇が統治の表面に甦ったのだ。
そして、年が改まって、品川で江戸無血開城の約が成った同日、
京都で天皇は、「五箇条の御誓文」と
「億兆安撫国威宣布の宸翰」を発せられた。
この王政復古の大号令は、
神武創業以来の我が国の連続性の確認であり、
五箇条の御誓文は、
新しい国家目標の誓いである。
つまり、我が国における「新しい国家」とは
古への「回帰」であることが宣言されたのである。
そして、「国威宣布の宸翰」は
若き明治天皇の国民への呼びかけである。
次に、この宸翰の冒頭の一文を記す。
朕幼弱を以て猝(にわ)かに大統を紹き
爾来何を以て万国に対立し列祖に事へ奉らんかと
朝夕恐懼に堪えざるなり。
これが若き御年十六歳の明治天皇の、
明治維新の最初に発せられた国民への呼びかけだ。
これほど、赤裸々に、
これほど、正直に、真情を国民に吐露された元首が他にあろうか。
そして、われわれは、
ご自分の年齢からくる不安を正直に誠心誠意国民に話しかけられた、
もうお一人の天皇のおられることを、深く思はねばならない。
明治天皇は、
明治元年に、十六歳の幼弱ゆえの不安を語られた。
そして、今上陛下は、
平成二十八年八月八日に、老齢ゆえの不安を次のように語られたのだ。
既に八十を超え、
幸い健康であるとは申せ、
次第に進む身体の衰えを考慮するとき、
これまでのように、
全身全霊をもって象徴の務めをはたしてゆくことが、
難しくなるのではないかと案じています。
ここにおいて、明治の初めにおいても、
百五十年後の平成の現在においても、
我が国の天皇は、
われわれ国民をご自分の家族として、
真情を語られていることを感じる。
なんとありがたい国に生まれ合わせていることかと、
しみじみ思うのは私だけではないと思う。
さらに、われわれは、
天皇のお言葉と詔書における
我が国家の戦前戦後の連続性、
明治と現在の連続性を確認しなけらばならない。
何故なら、この連続性は、
戦後教育の中で無視され封印されて、
児童生徒に教えられることなく打ち過ぎてきているからである。
しかし、昭和天皇は、
まさに戦前と戦後の連続性、明治と戦後の連続性を
国民に静かに伝えられていることを忘却してはならない。
昭和天皇は、大東亜戦争の終戦の年の秋、次の御製を詠まれた。
降り積もるみ雪にたへて色かへぬ松そををしき人もかくあれ
そして、年が明けた昭和二十一年の元旦、
次の「新日本建設に関する詔書」を発せられた。
その詔書の冒頭は、次の通り、五箇条の御誓文の宣言である。
茲に新年を迎ふ。
顧みれば明治天皇明治の初め国是として五箇条の御誓文を下し給へり。
曰く、
一、廣く会議を興し萬機公論に決すへし
一、上下心を一にして盛んに経綸を行ふべし
一、官武一途庶民に至る迄各其の志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す
一、旧来の陋習を破り天地の公道に基づくへし
一、知識を世界に求め大に皇基を振起すへし
叡旨公明正大、又何をか加へん。
朕は茲に誓いを新にして国運を開かんと欲す。
これで明らかであろう。
昭和天皇は、
終戦後に初めて迎えた新年冒頭において、
明治維新の志が
戦後日本の志であることを明らかにされたのだ。
つまり、この詔書は、
戦前と戦後の連続性、即ち、明治と現在の連続性の宣言である。
そして、昭和天皇は、次の一文を以てこの詔書を終えられている。
一年の計は年頭に在り、
朕は朕の信頼する国民が
朕と其の心を一にして自を奮ひ自を励まし、
以て此の大業を成就せんことを庶幾ふ。
そこで、われわれは自ら問わねばならない。
この昭和天皇の「新日本建設の詔書」を、戦後の学校教育やマスコミは、
天皇の「人間宣言」と呼んでいたではないか、と。
しかし、これは嘘だ。
この詔書は「人間宣言」ではない。
「五箇条の御誓文」の宣言である。
そもそも、天皇が人間であることは、日本人は万葉集の昔から知っている。
万葉集第一巻冒頭の歌は、
雄略天皇の、野原で菜を摘む娘に対する恋の歌ではないか。
明治維新から百五十年を経た現在、
われわれは、戦後の嘘を払いのけ、
明治維新の志は、
まさに現在の我が国家の志であることを確認し、
明治維新の志を以て
現在の我が国に迫るまことにに厳しい国難に、
明治のように「富国強兵」を実践しながら、
正々堂々と雄々しく立ち向かうことを誓わねばならない。
現在の国難も、
明治の国難と同じだ。
即ち、朝鮮半島と大陸が国難の策源地である。
違うのは、現在は、
朝鮮半島と大陸には、核弾頭ミサイルがあることと、
東の外洋から侵略しようと迫る欧米列強の軍事的圧力がないことである。
(この原稿は「伝統と革新」誌への出稿原稿を基にして書き足したものである)
即ち、明治維新から百五十年が経過した。
そこで、この百五十年間を長いとか短いとか回顧するだけではなく、
太古と明治維新と現在との連続性、
つまり、戦前と戦後の連続性を確認するための節目としての
明治維新百五十年をとらえることが、今、必要と考える。
つまり、作家の司馬遼太郎氏流の、
「この国」には、昭和とも現在の平成とも全く違う
「明治という国家」があったと捉えるのではなく、
我が国は、神代から、断絶の無い一つの連続した日本である、
と捉えた上で、
明治維新を見つめていきたい。
では、我が国を連続した一つの日本と捉える要(かなめ)は何か。
それは、天皇である。
万世一系の天皇を戴く国が日本である。
よって、天皇が天皇となられた「天照大神の天壌無窮の神勅」から、
現在まで万世一系の天皇がおられる日本に断絶はないのだ。
このこと、人類の「輝かしい自由と平等のフランス革命」や「プロレタリア革命」という「偉業」に、容量の少ない頭を振り回された
我が国の戦後の思想家や東京大学教授が、
明治維新をフランス革命なみに捉えようとしたり、
昭和二十年八月十五日の終戦の日に架空の
「八月十五日クーデター」
があったような嘘を教科書に書いているので、特に指摘しておきたい。
また、最近は、明治維新を、
戊辰戦争に勝った薩摩や長州の側からみるのではなく、
徳川幕府十五代将軍徳川慶喜と戊辰戦争で敗れた会津藩などの佐幕派の視点からの再評価が開始されたように見受ける。
確かにこれは重要な視点である。
しかし、勝った薩摩や長州の側から見ようと、
徳川慶喜と負けた会津の側から見ようと、
その中心に屹立するのは揺るぎない「天皇の明治維新」である。
そこで、薩摩・長州や会津からではなく、
「天皇の明治維新」という観点から象徴的な具体的問題提起をする。
それは、靖国神社の大鳥居から二の鳥居の間の中央に立てられた
大村益次郎の銅像のことだ。
明治天皇が創建された靖国神社の中央に
長州の大村益次郎の銅像がふさわしいのか。
私は、大村益次郎の銅像は横にどけるべきだと思う。
そして、あそこには、
江戸を救って明治維新を明治維新たらしめた、
戊辰戦争で敵味方に分かれた三人の明治天皇の忠臣、
勝海舟と西郷隆盛と山岡鉄舟の像を建てるべきだと思う。
勝と西郷と山岡は、慶応四年三月十四日、江戸無血開城という盟約を成し遂げた。
これは、世界において画期的なことであり
天皇を戴く我が国でしか起こりえない盟約である。
また、異民族の殲滅を目的とする支那の孫子の兵法思想や
欧州の兵法思想からも起こりえないことである。
この江戸無血開城は、軍事(兵法)の目的を
天皇のもとにおける「和」をもたらすものとする
我が国の伝統的兵法思想(これを記したのが「闘戦経」)のもとで成し遂げられた。
彼ら三人は、それぞれ幕臣と薩摩藩士であったが、
ともに天皇のもとにおける「和」を目指したのだ。
これによって、彼らは、当時の世界最大の都市である江戸における
勝海舟が漢詩で謳った「百万髑髏と化す」凄惨な市街戦を回避したのだ。
江戸の平穏はこれによって確保された。
大村益次郎は、この画期的な江戸無血開城が成ったあとの、
上野という限定された地域における一部幕臣の小決起を平定しただけである。
江戸無血開城は、
幕府軍が弱いから成った単なる世界の何処にでもある「降伏」ではない。
徳川慶喜に幕府の陸軍総裁に任命された勝海舟のもとに、
フランス陸軍教官ら数名の士官が面会に来て
「われわれがこれまで訓練してきた優秀な士官兵隊を率いて戦えば必ず勝つ。
われわれもこれまで教育したところを実戦で試してみる。実に愉快ではないか。」
と迫ってきた。
勝は彼らフランス軍士官を返して、
直ちにフランス公使のロセスを訪れ、
我が方針は恭順であると告げる。
すると公使のロセスは、不思議な面持ちで、
「どうしてこのような優勢な兵力があるのに戦わないのか、戦えば必ず勝つ」
と勝を説得してきた。
このロセスと別れた勝は、
イギリス公使のパークスと書記官のサトーに会い、
西郷との談判が決裂して戦争になった時に、
徳川慶喜をイギリスに亡命させるために
横浜にあるイギリス海軍の軍艦アイロンディック号を品川に回航しておいてくれと頼む。
そして、次に、
ナポレオンに侵攻されたロシアが
首都モスクワを焦土として対抗した先例に従って、
江戸の大焦土作戦の準備を整えた。
つまり、勝は、火消し、博徒、鳶職、運送のそれぞれの親分衆を集め、
莫大な金を握らせて、
いざとなったら火をつけて江戸を焦土にしろと命令した。
その勝が使った大金は、
同じく徳川慶喜に任命された幕府の大久保会計総裁が出した。
さらに、勝は大久保会計総裁が出す金で、
房総の船をことごとく借り上げて江戸に集結させ、
江戸市民が速やかに千葉や神奈川方面に退去できるようにした。
その上で、駿河にいる西郷に山岡鉄舟が死ぬ覚悟で会いに行くのである。
勝も死ぬ覚悟で、江戸で西郷一人を待った。
果たして、西郷も一人で勝に会いに来た。
そして、三月十四日、江戸無血開城の約が成った。
後年、勝も山岡も、
この時の状況を回顧して人に語るとき、
目に涙をたたえるのが常であったという。
このようにして、
天皇の国であるという
敵も味方も共にもつ日本人としての確信に支えられた相互信頼によって、
江戸は無血で開城された。
その結果、内乱としての戊辰戦争の犠牲者は、
最小限の約八千二百人に止まった。
これは、十年後の西南の役の犠牲者一万四千人を大幅に下回る。
また、同時代のアメリカの南北戦争の犠牲者は約八十二万人であり
フランス革命の犠牲者は百万人を超える。
やはり、天皇の国において世界的に画期的なことが起こったのだ。
この江戸無血開城の前年の秋、
徳川慶喜は政治を天皇に返還する「大政奉還」を行い、
次に同年暮れに朝廷は「王政復古の大号令」を発して、
神武創業の古(いにしえ)に戻ることを宣言した。
天皇が統治の表面に甦ったのだ。
そして、年が改まって、品川で江戸無血開城の約が成った同日、
京都で天皇は、「五箇条の御誓文」と
「億兆安撫国威宣布の宸翰」を発せられた。
この王政復古の大号令は、
神武創業以来の我が国の連続性の確認であり、
五箇条の御誓文は、
新しい国家目標の誓いである。
つまり、我が国における「新しい国家」とは
古への「回帰」であることが宣言されたのである。
そして、「国威宣布の宸翰」は
若き明治天皇の国民への呼びかけである。
次に、この宸翰の冒頭の一文を記す。
朕幼弱を以て猝(にわ)かに大統を紹き
爾来何を以て万国に対立し列祖に事へ奉らんかと
朝夕恐懼に堪えざるなり。
これが若き御年十六歳の明治天皇の、
明治維新の最初に発せられた国民への呼びかけだ。
これほど、赤裸々に、
これほど、正直に、真情を国民に吐露された元首が他にあろうか。
そして、われわれは、
ご自分の年齢からくる不安を正直に誠心誠意国民に話しかけられた、
もうお一人の天皇のおられることを、深く思はねばならない。
明治天皇は、
明治元年に、十六歳の幼弱ゆえの不安を語られた。
そして、今上陛下は、
平成二十八年八月八日に、老齢ゆえの不安を次のように語られたのだ。
既に八十を超え、
幸い健康であるとは申せ、
次第に進む身体の衰えを考慮するとき、
これまでのように、
全身全霊をもって象徴の務めをはたしてゆくことが、
難しくなるのではないかと案じています。
ここにおいて、明治の初めにおいても、
百五十年後の平成の現在においても、
我が国の天皇は、
われわれ国民をご自分の家族として、
真情を語られていることを感じる。
なんとありがたい国に生まれ合わせていることかと、
しみじみ思うのは私だけではないと思う。
さらに、われわれは、
天皇のお言葉と詔書における
我が国家の戦前戦後の連続性、
明治と現在の連続性を確認しなけらばならない。
何故なら、この連続性は、
戦後教育の中で無視され封印されて、
児童生徒に教えられることなく打ち過ぎてきているからである。
しかし、昭和天皇は、
まさに戦前と戦後の連続性、明治と戦後の連続性を
国民に静かに伝えられていることを忘却してはならない。
昭和天皇は、大東亜戦争の終戦の年の秋、次の御製を詠まれた。
降り積もるみ雪にたへて色かへぬ松そををしき人もかくあれ
そして、年が明けた昭和二十一年の元旦、
次の「新日本建設に関する詔書」を発せられた。
その詔書の冒頭は、次の通り、五箇条の御誓文の宣言である。
茲に新年を迎ふ。
顧みれば明治天皇明治の初め国是として五箇条の御誓文を下し給へり。
曰く、
一、廣く会議を興し萬機公論に決すへし
一、上下心を一にして盛んに経綸を行ふべし
一、官武一途庶民に至る迄各其の志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す
一、旧来の陋習を破り天地の公道に基づくへし
一、知識を世界に求め大に皇基を振起すへし
叡旨公明正大、又何をか加へん。
朕は茲に誓いを新にして国運を開かんと欲す。
これで明らかであろう。
昭和天皇は、
終戦後に初めて迎えた新年冒頭において、
明治維新の志が
戦後日本の志であることを明らかにされたのだ。
つまり、この詔書は、
戦前と戦後の連続性、即ち、明治と現在の連続性の宣言である。
そして、昭和天皇は、次の一文を以てこの詔書を終えられている。
一年の計は年頭に在り、
朕は朕の信頼する国民が
朕と其の心を一にして自を奮ひ自を励まし、
以て此の大業を成就せんことを庶幾ふ。
そこで、われわれは自ら問わねばならない。
この昭和天皇の「新日本建設の詔書」を、戦後の学校教育やマスコミは、
天皇の「人間宣言」と呼んでいたではないか、と。
しかし、これは嘘だ。
この詔書は「人間宣言」ではない。
「五箇条の御誓文」の宣言である。
そもそも、天皇が人間であることは、日本人は万葉集の昔から知っている。
万葉集第一巻冒頭の歌は、
雄略天皇の、野原で菜を摘む娘に対する恋の歌ではないか。
明治維新から百五十年を経た現在、
われわれは、戦後の嘘を払いのけ、
明治維新の志は、
まさに現在の我が国家の志であることを確認し、
明治維新の志を以て
現在の我が国に迫るまことにに厳しい国難に、
明治のように「富国強兵」を実践しながら、
正々堂々と雄々しく立ち向かうことを誓わねばならない。
現在の国難も、
明治の国難と同じだ。
即ち、朝鮮半島と大陸が国難の策源地である。
違うのは、現在は、
朝鮮半島と大陸には、核弾頭ミサイルがあることと、
東の外洋から侵略しようと迫る欧米列強の軍事的圧力がないことである。
(この原稿は「伝統と革新」誌への出稿原稿を基にして書き足したものである)