小寺一矢先生、そして対馬 | 旗本退屈女のスクラップブック。

 

西村眞悟の時事通信

 

平成29年5月26日(金)

ここ数日、月刊誌への原稿書きに費やし、時事通信の書き込みをせず、
昨夜は、清交社関大会において、
故小寺一矢先生を偲ぶ講話を行った。
そして、深夜帰宅して本日二十六日を迎え、これから対馬に出発し、
明日五月二十七日、
対馬北端の岬の丘で行われる日本海海戦勝利百十二周年の式典に出席する。

思えば昨年、長岡京の小寺一矢先生のご自宅に伺ったとき、
先生は、どういう訳か、「眞悟、この本、もっていけ」と言って
一九〇五年、明治三十八年五月二十七日、
バルチック艦隊の一員としてはるばるバルト海から対馬沖に来て
我が連合艦隊と戦ったロシア人の書いた戦記「ツシマ」を下さった。
何故、小寺先生が、
本棚から「ツシマ」を選んで、
「これ」と言われて私に渡されたのか分からない。
しかし、昨夜の小寺先生を偲ぶ会の翌日に対馬に行く私は、
不思議な符合を感じる。
何故なら、昨夜の偲ぶ会で、私は、
吉田松陰の「身、亡びて魂存する者有り」と言う言葉を掲げて、
小寺一矢先生は、まさにその「魂存する者」である、と申したからだ。
よって、
小寺一矢先生について、
そして対馬のことについて、記しておきたい。

吉田松陰は、話を聞きに来た若者達に、
死を覚悟して戦い抜いた楠木正成が、湊川で弟や部下七十余人と、
微笑みながら自決する時のことを語るとき、
ぽろぽろと涙を流しながら語ったと云われている。
その時、松陰は、正成になりきっていた。
三月十日に、亡くなった小寺一矢先生も、
特攻隊や勇戦奮闘した将兵のことを話している最中によく泣かれた。
これは、小寺先生も、
吉田松陰と同じ魂、同じ情感の波動、をもたれていることを示している。
それ故、昨夜の偲ぶ会では、
この我が国の魂の伝統である
死して生きる勇士達の言葉の系譜をメモして配布させてもらった。

吉田松陰
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」
昭和二十年四月二十二日午前十時、
台湾から沖縄方面に突入していった十八歳から二十二歳の十四人の陸軍特別攻撃隊員
「今、ここで死ぬのが、自分にとって最高の生き方です」
昭和二十年五月に散華した神風特別攻撃隊西田高光
「おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに・・・」

小寺先生のお父上は、軍医として戦場に赴かれた。
その部下の従軍看護婦であった婦人は、生涯独身で、戦後も看護婦を続けられ
定年退職後は昭和六十二年頃から癌で亡くなる前年の平成二十一年まで、
二十年以上にわたって、毎年沖縄で戦死した兄を捜して沖縄で遺骨収集活動を行った。
そして、八十七歳で亡くなる前年に、
戦争中の上司であった軍医殿のご子息である小寺先生に、
自分の遺産全額を託し、
兄の御霊を祀る靖国神社と遺骨収集の実施団体などに寄付してほしいと依頼した。
小寺先生は、じっくりと彼女の話を聞き取って遺言の執行にあたられた。
これは、彼女にとっては、小寺先生に、自分の生涯の全てを委ねることである。
これほど信頼される方は、めったにいるものではない。
そして、この信頼は「一代」で生まれるものではなく
小寺先生のご先祖から父上を通じて小寺先生に至っているものである。
このご婦人と小寺先生との信頼の物語は、
「兄の御霊へ・・・」と題して産経新聞の平成二十二年六月十七日夕刊で報道された。

産経新聞は、
小寺先生が亡くなってから二度にわたって「戦後72年 弁護士会」を特集した。
その特集のなかで、小寺先生を
「異例の保守派だった当時の大阪弁護士会会長、小寺一矢」
として紹介している(平成二十九年五月十九日朝刊)。
そう、小寺先生は、
左翼傾向の強い弁護士会にあって「異例の保守派」だった。
そして、弁護士の使命である人権の擁護と社会正義の実現に最も忠実な弁護士であった。
小寺先生が、大阪弁護士会会長に選出されるや、
大阪弁護士会は、
横田めぐみさんのご両親を招いて、
北朝鮮に拉致された日本国民の救出集会を開催した。
驚くべきことであるが、
今日に至るまで、人権擁護を使命として掲げる全国の弁護士会のなかで、
拉致被害者救出集会を開催した弁護士会は、
ただ大阪弁護士会だけである。
特定失踪者調査会の代表荒木和博は、
この小寺一矢会長による大阪弁護士会の拉致被害者救出集会開催を、
「空前絶後」と言った。
小寺一矢弁護士を、
弁護士会長に選出した大阪弁護士会は、
近い将来、歴史のなかで賞賛されるであろう。

昨夜の小寺一矢先生を偲ぶ清交社関大会は、全員による「蛍の光」の合唱で終えた。
   筑紫の極み、道の奧、海山遠く隔つとも、
   そのまごころは、隔てなく、一つに尽くせ、
   国のため・・・


さて、対馬であるが、
五月二十七日は、日露戦争における我が国家の存亡をかけた
対馬沖で行われた日本海海戦の日である。
毎年、この日、対馬北端の海戦海域を遠望する丘の
連合艦隊司令長官東郷平八郎の書碑と日露両軍戦没者の名が刻まれた慰霊碑の前で
式典が行われている。

二〇〇五年(平成十七年)は、
イギリスでは、トラガルファー海戦二百年の年であり
日本では、日本海海戦百年の年であった。

従って、イギリスでは、この国家の存亡をかけた海戦の二百年の節目の記念日に、
女王陛下がお出ましになって軍艦に座乗され
Royal Navyの大観閲式が行われることになっていた。

従って、我が国家の存亡をかけた日本海海戦の百年の節目の記念日に、
海戦海域を見渡せる対馬において、
我が日本も、
Our Imperial Navyの大観閲式を行おうではないか。
天皇陛下の御座乗がかなはなくとも総理大臣が観閲されたい。
と、いうのが対馬の有志と私どもの願いだった。
その準備は、百年目の前々年から行われ、私はその時、初めて対馬を訪れた。
結局、百年記念の平成十七年五月二十七日は、
大観閲式にはならず、
海上自衛隊の掃海艇数隻が対馬に集結し、
我々は、ロシア大使館員やウクライナ大使らとともに、その掃海艇に乗り
海戦海域で靖国神社から持参した酒を海に注いで式を終えた。
ささやかであり、イギリスのようにはできなかったが、
対馬で日露戦争の日本海海戦の顕彰と慰霊が行われたのだった。
そして、その後、地元対馬の有志は、
毎年五月二十七日に、対馬駐屯の陸海空自衛隊員とともに、
ロシアを招いて、時にロシア正教の坊さんも招いて、
対馬北端の丘で、日本海海戦の顕彰と慰霊を続けている。
私も、毎年かかさず出席している。

小寺先生が、昨年の末、
これ、といって「ツシマ」を私にくれたのは、
来年は、おれも対馬に行くぞと言うサインだったのかなと思い、
これから出発し、明日未明、対馬の厳原の港に着く。