三島由紀夫・森田必勝と白襷隊が歴史に刻まれた日。 | 旗本退屈女のスクラップブック。

 

西村眞悟の時事通信

 

平成28年11月26日(土)

毎年、十一月の二十五日と翌二十六日が来れば、心に浮かぶ。それは、
昭和四十五年(1970年)十一月二十五日の
三島由紀夫・森田必勝の市ヶ谷台の自衛隊東部方面総監部における自決、
明治三十七年(1904年)十一月二十六日の
日露戦争旅順要塞攻防戦における三千名の白襷決死隊の突撃と玉砕。

 今年の十一月二十五日も、
穏やかな温かい小春日和の日差しが、紅葉と枯葉を照らしていた。
それは、昭和四十五年の十一月二十五日と同じ日差しだった。
 その日の正午頃、京大の学生だった私は、大学から吉田山を下って東の浄土寺馬場町にある住まいの学生寮の方向に歩いていた。
白川通りを渡って寮の垣根沿いに門のところに近づくと、中から飛び出してきた寮生と出くわした。
彼が言った。「三島さんが自衛隊に押し入って立て籠もっている」
彼の顔を見つめた。その顔に穏やかな陽が照らしていて枯葉の影が映っていた。
 その陽と影を見ながら思った。
 三島さんは死ぬんだ、と。
寮生の顔に映る枯葉の影の形が今も瞼に浮かんでいる。

 この日、三島由紀夫と森田必勝は、自決し、
我々が命を懸けて守らねばならない日本、我々の血に根ざす価値、
を示さんとした。
 我が国の歴史を動かす根底には、
戦死するために敢然と湊川に赴いた楠木正成の事績から明らかなように、
自決した者が後世に遺す力が流れている。
 幕末の志士たちと城山で戦死した西郷南洲は、楠木正成を敬仰し、
その西郷の計り知れない偉大さを三島由紀夫は深く感じていた。
 昭和四十五年十一月二十五日の昼ころ、三島由紀夫は、割腹自決の直前に、
市ヶ谷台のバルコニーから、下に集まった自衛官に叫んだ。
 
 男一匹が命を賭けて訴えているんだぞ、聞け、静聴せいっ!
 
 そして、割腹し自決した。
 これによって、三島由紀夫と森田必勝は、
命を賭けて何事かを歴史に刻みつけ、我が国の歴史を動かす根底にある、
楠木正成や西郷南洲の系譜に連なる強烈な力を遺した。
 よって、西郷南洲について、
江藤淳が、明治十年九月二十四日の朝、
西郷の首実検をした山県有朋の感慨を借りて記した一文を記しておきたい。この文は、西郷南洲を慕った「三島由紀夫という思想」について述べた一文でもあると思うからである。次の文の「西郷南洲」は「三島由紀夫」である。
 
 西郷の首を両手を差し伸べて受け取ったとき、実は山県は、
自裁せず戦死した「西郷南洲」という強烈な思想と対決していたのである。
陽明学でもない、「敬天愛人」ですらない、国粋主義でも、排外主義でもない、
それらすべてを超えながら、日本人の心情を深く揺り動かして止まない
「西郷南洲」という思想。
マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、
日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった。

 この三島由紀夫と森田必勝の自決から六十六年前の、
十一月二十六日早朝、
日露戦争における旅順要塞への第三回総攻撃を開始するにあたり、
乃木希典第三軍司令官は、整列した三千名の白襷隊の全将兵に次の訓示をした。

 今や陸には敵軍の大増加あり、海にはバルチック艦隊の廻航遠きにあらず。
国家の安危は我が攻囲軍の成否によりて決せられんとす。
この時に当たり特別予備隊の壮挙を敢行す。
余はまさに死地に就かんとする当隊に対し、
嘱望の切実なるものあるを禁ぜず。
諸子が一死君国に殉ずべきは実に今日に在り。
こいねがはくは努力せよ!

 この訓示ののち、乃木軍司令官は、整列する将兵の間をめぐり、
涙を流しつつ主たる者に握手して、
ただ「死んでくれ、死んでくれ」と言った。
 白襷隊三千は、午後六時行動を開始し、
午後九時前に旅順三大永久堡塁の一つである松樹山方面の敵陣に猛然と突入した。
これに対するロシア軍は、火砲、機関銃、手榴弾、地雷などで激烈な反撃を開始し、
白襷隊は中村覚隊長が重傷を負い、
実に隊の三分の二におよぶ二千名の死傷者を出して敗退した。

 何故、
二十五日の、三島由紀夫・森田必勝自決に続いて
翌二十六日には、この白襷隊を思うかと言えば、
司馬遼太郎が「坂の上の雲」で、乃木希典軍司令官を無能と罵り、
白襷隊将兵の永久堡塁松樹山に対する突撃を、「兵の屠殺」と犬死したように見下し、
国家に対する何の貢献も認めないからである。
この「坂の上の雲」がなまじっか広く読まれるから、
さらに白襷隊を思うのである。
 何故なら、ロシア軍の記録によると、
ロシア軍を精神的に屈服させたものこそ、
第三回総攻撃における白襷隊の肉弾突撃であると記しているからである。

 余は敢えて屈服という。
されど1905年1月1日の旅順開城にあらざるなり。
その前年の暮れ、即ち11月26日における白襷抜刀決死隊の勇敢なる動作こそ、
まことに余輩をして精神的屈服を遂げしめる原因なれ・・・
(砲撃による)天地の振動に乗じ、数千の白襷隊は潮のごとく驀進して要塞内に侵入せり。
総員こぞって密集隊、白襷を血染めにして抜刀の形姿、余らは顔色を変えざるを得ざりき。
余らはこの瞬間、一種言うべからざる感にうたれぬ。曰く、屈服。

 乃木第三軍は、旅順要塞攻略に十三万の兵士を動員し、
五万九千余の死傷者を出した。
旅順開城後の明治三十八年一月十四日、
第三軍は雪が舞う中で戦没将兵の招魂祭を水師営北方高地で行った。
祭壇に進んで祭文を朗読する
乃木軍司令官の声は詰まり、
整列した将兵の群れのなかに抑えきれない嗚咽が、雪を舞わす風とともに流れていた。

 十一月二十五日と翌二十六日は、
我々の生きた同時代とその六十六年前に、
ともに、命を賭けて守らねばならない日本のために、
現実に命を賭けた勇士達が、
歴史に刻まれた日である。