米国の大ベストセラーは、酷い捏造本だ! | 旗本退屈女のスクラップブック。

 

 

米国ベストセラー「残虐な日本軍を止めるには原爆投下は正しかった」・南京大虐殺や慰安婦強制も肯定

 

 

アメリカで大ベストセラーの『KILLING THE RISING SUN』 Bill O'Reily, Martin Dugard著
反日感情を高める歴史書が大人気!
「残虐な日本軍を止めるには原爆投下は正しかった」!
南京大虐殺や従軍慰安婦強制などの虚偽も記述!


http://wedge.ismedia.jp/articles/-/8045

森川聡一
WEDGE Infinity、2016年10月28日


■今回の一冊■
KILLING THE RISING SUN
筆者 Bill O'Reily, Martin Dugard
出版社 Henry Holt

『KILLING THE RISING SUN』(Bill O'Reily, Martin Dugard ,Henry Holt)
『KILLING THE RISING SUN』(Bill O'Reily, Martin Dugard ,Henry Holt)

 太平洋戦争で日本軍がアジアで行った非人道的な行為などを盛り込んだ歴史ノンフィクションが今、アメリカで大ベストセラーとなっている。その主張は明快だ。多大な犠牲を生んでいた戦争を終わらせるには、広島・長崎に原爆を投下したことはやむを得なかった。原爆投下を決めたアメリカのトルーマン大統領の決断は正しかった――というものだ。おまけに、カーターや父ブッシュら元大統領から原爆投下に関する意見を書簡で寄せてもらい、その手紙も巻末に掲載している。日本人としてはとても気になる本だ。

 ニューヨーク・タイムズのベストセラーリスト(単行本ノンフィクション部門)では10月2日付でトップで初登場し、ランクイン5週目となる直近10月30日付でもトップの座にいる。今年はオバマ大統領が現職の大統領として初めて被爆地・広島を訪れた。日本人にとっては特別な思いを抱かせる出来事だった。しかし、大統領の本国アメリカでは原爆投下は正しかったと論じる歴史書が売れているのだ。

 しかも、原爆投下を正当化するため、日本がいかにひどいことをしたかを克明に書く。一般のアメリカ人が読むと反日感情を抱くだろう。日本は原爆の被害者である前に、アジアの人々に多大な犠牲をもたらし、アメリカ兵を殺した加害者だというとらえ方だ。原爆を投下された被害者という立場からだけ訴えても、なかなかアメリカ人には原爆の悲惨さを受け入れてもらえないということなのだろうか。

■「残虐な日本軍を止めるには原爆投下はしかたなかった」

 筆者のビル・オライリーは「オライリー・ファクター」というテレビのニュース番組の司会者を務め、保守派の論客として人気を博する人物だ。本書のタイトルKILLING THE RISING SUN のRISING SUNとはもちろん「日いづる国」からとったもので日本を指す。日本をKILLINGとは穏やかな表現ではないと思われるかもしれない。しかし、筆者はすでにKILLING LINCOLN、KILLING KENNEDYなどのベストセラーを相次ぎ上梓している。本書はこのKILLINGシリーズの第6作目となる。

 とても読みやすく微妙にバランスのとれた内容だというのが、一読した後の正直な感想だ。歴史ノンフィクションとさきほど書いたが、歴史読み物といった方がいいかもしれない。つくりはハリウッド映画的だ。各章は特定の場所、年月日と時刻を明示し、大統領執務室での要人たちのやりとり、ペリリュー島や沖縄での日本軍とアメリカ軍の激闘など、さまざまな場面を臨場感豊かに描写し、アメリカが原爆投下という決断に至る過程を描く。一方的な論の展開ではなく、歴史的な事実を積み重ねた読み物としてまとめており逆に説得力がある。

 ペリリュー島や硫黄島などでの激闘シーンでは、当然ながらほとんどがアメリカ兵の視点から描かれる。実際に従軍した人々の回想コメントなどをふんだんに盛り込み、国のために命を落としていくアメリカ兵たちの英雄的な活躍をドラマチックに描く。アメリカ人が書いたのだから、これはしかたないだろう。一方で、アメリカ軍が無差別爆撃で民間人を大量虐殺した東京大空襲にふれたり、原爆投下によって引き起こされた広島や長崎での惨状について、被爆者たちの回想談なども交えて伝えたりしている。核兵器の悲惨さを指摘しながらも、本書は原爆投下はやはり正しかったと主張する。

 本書が原爆投下を正当化するロジックの基本はこうだ。武士道を大切にする日本はなかなか無条件降伏を受け入れなかった。あのまま戦争が続いていたら、アメリカは日本本土への上陸作戦を決行し、さらに多くの命が失われていただろう。残虐な日本軍を止めるには原爆投下はしかたなかったというものだ。

■バターン死の行進、南京事件、従軍慰安婦についての記述も

 これから、本書の記述をいくつか引用するが、本コラムを執筆するわたし自身、歴史的な事実として内容が正しいのかどうか判断する能力を持たないことはお断りしておく。ベストセラーに日本軍による残虐な行為が多く取り上げられ、多くのアメリカ人が読んでいるという事実をまずは知っていただきたい。日本軍の蛮行に関する記述の詳細な吟味や事実誤認がある場合の筆者オライリーへの抗議などは、歴史家や外務省の専門家の方々にお任せしたい。

 日本軍によるフィリピン進攻作戦で、アメリカ軍とフィリピン軍の捕虜を捕虜収容所に移送する際に多数の死者を出した、いわゆる「バターン死の行進」について次のように記している。 

 Bataan Death March, seventy-six thousand captured American and Filipino soldiers were stripped of their valuables and force-marched sixty-five miles to a prison camp. Their hands were bound the entire way; those unable to keep pace in the brutal heat and humidity were shot, bayoneted, or beheaded by their captors. Japanese trucks rolled right over those who collapsed. In all, more than seven thousand men perished.

 「バターン死の行進では、捕虜となった7万6000人のアメリカ兵とフィリピン兵が貴重品を奪われ、65マイル離れた捕虜収容所まで徒歩での強行軍を強いられた。捕虜たちの両手は縛られっぱなしだった。猛暑と極度の湿度のなか、ついていけなくなった者たちは、日本兵に銃で撃たれたり銃剣で刺されたり、あるいは首を切られた。日本軍のトラックは倒れた者たちの上を進んでいった。総計7千人以上が亡くなった」


 南京事件については次のように書いている。

In all, the Japanese systematically defiled and murdered half of Nanking's six hundered thousand citizens. Their behavior was hardly a secret. The people of Japan thrilled to news that the Chinese were being savagely tyrannized; in Tokyo, the Japan Advertiser ran a daily tally of the dead in a decapitation contest between two prominent Japanese soldiers.

 「日本軍は組織的に冒とく行為を行い、南京の60万人の市民の半分を殺害した。日本兵たちの行為は秘密ではなかった。中国の人々が残忍に虐げられるニュースに日本の人々は興奮していた。東京ではジャパン・アドバタイザー紙が日々、著名な2人の日本兵が首切り競争で何人殺したかを報じていた」


■「東京大空襲は史上もっとも恐ろしい爆撃だ」

 このほか、フィリピン・マニラで日本軍が多くの婦女子をレイプした事例について、被害者たちの証言を当時の調査報告書から引用するなどして詳述している。悪名高い731部隊についても書いている。こんなひどいことをしたのかと、読んでいて気分が悪くなる内容だ。従軍慰安婦についても本書は次のように記す。

 Soon the rest of the world will discover that the Japanese leadership not only brutalizes captured soldiers but has also sanctioned the use of women in conquered territories as prostitutes for the gratification of Japanese troops. These innocent civilians are forced into sexual slavery and have become known as comfort women. Some two hundred thousand of these victims have been abducted or sold to brothels favored by Japanese troops. The penalty for becoming pregnant is often death or disembowelment, for fear of diluting the purity of the Japanese race with the blood of a mixed-race child. (中略)Women from Taiwan, the Philippines, Korea, Indonesia, Bruma, and Holland have been taken captive and repeatedly raped by Japanese soldiers.

 「世界はやがて次の事実を発見する。日本の軍部が捕虜を虐待するだけでなく、日本兵を喜ばせるために占領地の女性たちを売春婦としてつかうことを許可していた。罪のない民間人が無理やり性の奴隷にされ慰安婦と呼ばれていた。こうした約20万人の犠牲者たちは誘拐されたり売られたりして、日本兵がつかう売春宿で働かされた。妊娠した場合の罰はしばし死であり腹裂きだった。日本民族の純潔が混血児によって汚されるのを恐れたためだ。(中略)台湾やフィリピン、韓国、インドネシア、ビルマ(現ミャンマー)、オランダの女性たちがとらわれ、日本兵に繰り返しレイプされた」


 本書は一方で、日本を非難するだけで終わらせず、アメリカ軍が1945年3月の東京大空襲で引き起こした惨事も忘れない。

 This firebombing of Tokyo, known as Operation Meetinghouse, is the most horrific bombing in history, far deadlier than the recent Dresden attacks---or any other bombing of the Second World War.

 「東京大空襲(ミーティングハウス作戦として知られる)は史上もっとも恐ろしい爆撃だ。当時のドレスデン空爆や第二次世界大戦におけるいかなる爆撃よりもひどいものだった」

■トルーマンを支持した父ブッシュ

 本書はアメリカの大統領やマッカーサー将軍、マンハッタン計画のもと原爆開発を急ぐ科学者たち、日本の昭和天皇の動きも織り交ぜながら、アメリカが原爆を日本に投下するに至る経緯を追っていく。筆者のビル・オライリーは第二次世界大戦末期に米海軍の少尉だった自分の父親も登場させる。アメリカが原爆を投下せず、日本本土への上陸作戦を決行していたら自分の父親は戦死していた可能性が高く、原爆のおかげで今の自分の生があると述べる。

 筆者のオライリーはさらに、歴代の大統領たちに、原爆投下を決めたトルーマン大統領の決断をどう評価するか問い合わせている。ジミー・カーターや父ブッシュ、息子ブッシュからそれぞれ書簡で回答を得たといい、その手紙のコピーを巻末に掲載している。ちなみに、ビル・クリントンとオバマ大統領は回答を断ったという。

 最後に、父ブッシュの手紙から引用して本稿を締めくくりたい。これがアメリカの一定の世代に共通する考え方なのかもしれない。

 I think Harry Truman did the right thing. Thousands of Americans would have died invading Japan. Maybe even me. (中略)So would I have done the same thing? I think so. At that time, it was the right decision. tough but right.

 「わたしはハリー・トルーマンは正しいことをしたと思う。日本への上陸作戦を実行していたら何千人ものアメリカ人が死んだだろう。おそらく、わたしもだ。(中略)わたしなら同じことをしだろうか? わたしはそう思う。あの時には、そうすることが正しい決断だった。大変な決断だが、正しい決断だ」


今でもこんな馬鹿馬鹿しい本が大ベストセラーになっているようではアメリカもつくづく愚民国家なのだと思う。

日本は原爆を投下されるよりもかなり早くから戦争を終わらせたい意思をアメリカに伝えていた。

それでも、アメリカは、戦争を終わらせたい日本の意思を無視し、原爆投下を強行したのだ。(詳細は後述)


東京裁判で上記の論法を既成事実化するため、GHQによって南京大虐殺などがでっち上げられた。

当ブログは、平成18年(2006年)のブログ開設当初からタイトルで「正しい歴史認識」と強調しているのだから、歴史的な事実として内容が正しいのかどうかをシッカリと検証していく!

と言うか、どれもこれも簡単に論破できる。


米国の大ベストセラーは、嘘っぱちの出鱈目だらけ!

まず、米国の大ベストセラーには「捕虜たちの両手は縛られっぱなしだった。」と書かかれているが、写真を見れば一目瞭然でそのような事実はない!

「バターン死の行進」。「捕虜たちの両手は縛られっぱなしだった。」というのは虚偽記載だ!しかも、捕虜たちは水筒を保有するほど厚遇されている。米国の大ベストセラーには「捕虜たちの両手は縛られっぱなしだった

いわゆる「バターン死の行進」において「捕虜たちの両手は縛られっぱなしだった。」というのは虚偽記載だ!

しかも、捕虜たちは水筒を保有するほど厚遇されている。


いわゆる「バターン死の行進」で、捕虜が手を縛られたのは、小休止の時だけだった。
「バターン死の行進」で、捕虜が手を縛られたのは、小休止の時だけだった。 行進中の小休止 米国の大ベストセラーには「捕虜たちの両手は縛られっぱなしだった。」と書かかれているが、手を縛られたのは小休止の時


次に、いわゆる「バターン死の行進」において65マイル(約100km)を歩いたのは、米軍捕虜だけではない。

アメリカ軍捕虜は水筒だけを持って歩いたが、日本軍兵士は60kg以上の重い荷物を持って歩いたのだから日本兵の方が遥かに過酷だった。

日本兵と米軍捕虜が一緒に約100kmも歩いて日本兵が死なずに捕虜だけ死んだ理由は、捕虜がもともとマラリアなどに罹っていたことが最大の要因だった。

さらに、米国の大ベストセラーは「ついていけなくなった者たちは、日本兵に銃で撃たれたり銃剣で刺されたり、あるいは首を切られた。日本軍のトラックは倒れた者たちの上を進んでいった。」と書いているが、この辺の記述は完全なでっち上げの嘘っぱちだ。

 

降伏時バタアン半島の米比軍と流民の状況は、士気は全く衰え、食料の不足とマラリアの流行とのため極度に衰弱していたが、コレヒドール攻略戦を目前に控えた軍としては、その準備や防諜上の観点、および米比軍の砲爆撃によって傷つけないためにも、これらの捕虜や住民を原位置に留めておくことはできなかった。
 しかも米比軍の降伏が以外に早かったため、これら捕虜に対する食料、収容施設、輸送などに関し準備を行なう余裕もなかった。当時、軍自体が食料および輸送力の不足に苦慮している状態であった。したがってこれら捕虜もいきおい比較的食糧などを補給しやすい地域に、徒歩で移動させなければならない事情にあった。

(中略)

「死の行進」に関し和知参謀長は、要旨次のように述べている。

 元来バタアン半島はマラリヤのはびこる地帯である。それだけに敵味方ともマラリヤにかかり、その他にデング熱や赤痢に倒れる者もあって全く疲れていた。
 バタアンの比島軍の捕虜は五万であったが、その他一般市民で軍とともにバタアンへ逃げ込んだのが約二~三万は数えられ、合計八万に近い捕虜があった。一月から四月まで、かれこれ三ヶ月半も、バタアンの山中にひそんでいたためほとんどがマラリアその他の患者になっていた。その彼らを後方にさげねばならなかった。なぜなら軍にはまだコレヒドール攻略が残っていたからである。
 捕虜は第一線から徒歩でサンフェルナンドへ送られた。護送する日本兵も一緒に歩いた。水筒一つの捕虜に比し背嚢を背負い銃をかついで歩いた。全行程約六十数キロあまり、それを四~五日がかりで歩いたのだから牛の歩くに似た行軍であった。疲れきっていたからである。南国とはいえ夜になると肌寒くなるので、日本兵が焚火をし、炊き出しをして彼らに食事を与え、それから自分らも食べた。通りかかった報道班員が見かねて食料を与えたこともある。できればトラックで輸送すべきであったろう。しかし貧弱な装備の日本軍にそれだけのトラックのあるはずもなかった。次期作戦、すなわちコレヒドール島攻略準備にもトラックは事欠く状態だったのである。
(中略)
 むろん道中でバタバタと彼らは倒れた。それはしかしマラリア患者が大部分だった。さらにもう一つ付け加えれば、彼らはトラックで移動することを常とし、徒歩行軍に馴れていなかったことである。

防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書 比島攻略作戦」(朝雲新聞社)P432


また、日本軍はいわゆる「バターン死の行進」で犠牲になった米軍捕虜を丁寧に埋葬した。
いわゆる「バターン死の行進」で犠牲になった米軍捕虜を丁寧に埋葬した日本軍
日本軍は、いわゆる「バターン死の行進」で犠牲になった米軍捕虜を丁寧に埋葬した。


一方、米軍兵は日本兵を惨殺した上に、日本軍戦死者の遺体の切断するなど、その死体の扱いも非人道的だった。
吊るされる日本兵の首。(1945年ビルマ、アメリカ軍撮影とされてる)
吊るされる日本兵の首。(1945年ビルマ、アメリカ軍撮影とされてる)

日本人の頭部で遊んでいるマクファーソン中尉。アメリカ海軍魚雷艇341の甲板にて。(1944年4月30日ニューギニア)
日本人の頭部で遊んでいるマクファーソン中尉。アメリカ海軍魚雷艇341の甲板にて。(1944年4月30日ニューギニア)

まず、米国の大ベストセラーには「南京の60万人の市民の半分を殺害した。」と書かれているが、南京戦が始まる頃の南京の人口は約20万人かそれ以下だった!

▽1937年11月~12月の南京の人口推移▽

1937年前半「100万人超」
(支那事変勃発前)

1937/11/23日「50万」
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である」
南京市政府書簡(南京事件P220 笠原十九司)

11/27「30~40万」
在留外国人に対して「避難勧告」が出された。
「市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと」
米大使館報告 (アメリカ資料編P90)

12月1日、南京市長が全市民に安全地区に移るように命令

12/6「約20万」
なぜ。金持ちを、約80万という恵まれた市民を逃がしたんだ?
(ラーベの日記P96)

12月8日、支那軍司令長官唐生智が非戦闘員は全て安全地区に移るように命令

12月10日「約20万」
なにしろ、この街の運命と20万人の命がかかっているのだ。安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。(略)残念ながら軍人がまだ大勢、安全区に留まっている。
(ラーベの日記P107)

12月13日「約20万」
言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。(略)もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。
(安全委員会公文書T-6)


▽陥落直前の南京の人口に関する資料▽
――――――――――
安全委員会公文書【20万人の市民】
スティール【10万人の市民】
アベンド【10万人以上】
ダーディン【10万を越す非戦闘員たち+民間人は5万以上】
ラーベ【20万人】
リリー・アベック【15万人】
米ライフ紙【15万人の南京市民】
張群思少佐【非戦闘員10万】
劉啓雄少将【20万】
松井大将【12万余】
――――――――――


以上の資料を総合してみると、12月13日、南京陥落時点の南京の人口は、【10万人から最高20万人】の間とみて間違いない!

なお、南京陥落から1か月後の生存人口が約25万人(安全委員会公文書)だから人口は増えた。

そして、その約20万人の市民は、全員が安全区(難民区)に避難しており、日本軍による虐殺は全く確認されていない。(詳細記事



次に、米国の大ベストセラーには「日本兵たちの行為は秘密ではなかった。中国の人々が残忍に虐げられるニュースに日本の人々は興奮していた。東京ではジャパン・アドバタイザー紙が日々、著名な2人の日本兵が首切り競争で何人殺したかを報じていた」と書かれているが、これは「百人斬り」のことを酷く歪曲して記述している。

昭和12年に東京日日新聞(毎日新聞)が報道した「百人斬り」というのは、「敵兵を斬った」という内容だったので、実際に有ろうが無かろうが全く問題のない内容だった。

「百人斬り」というのは、昭和12年(1937年)の東京日日新聞(毎日新聞)の最初の記事においては、「野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた」と記述されていたように、「敵兵を斬った」という内容の武勇談(宣伝報道)だった。


記事内容が事実か作り話かの問題は置いておき、この東京日日新聞(毎日新聞)の記事は敵陣地に突撃して敵兵を斬ったという「武勇伝」が報道されていた。

そして、この話は実際には宣伝のための作り話だった。

百歩譲って、仮に宣伝のための「作り話」ではなく事実報道だったとしても、敵陣で敵兵を斬ったことを犯罪にしたのだから、実におかしなことだった。

したがって、支那は戦後の「南京軍事法廷」で敵兵(支那兵)を斬った日本軍将校を死刑にしたのだから滅茶苦茶であり、悪いのは支那だった。

話がややこしくなったのは、戦後20年以上経ち、朝日新聞の本多勝一が話を捏造したからだった。

朝日新聞記者だった本多勝一は、日本兵が敵陣地に突撃して敵兵を斬ったという「百人斬り」について「これではツマラナイ」、「このままではマズイ」と思ったのだろう。

本多勝一は勝手に、「降伏を呼びかけられて塹壕から出てきた無抵抗の蒋介石軍兵士らを並ばせておいて、かたはしから斬った」などと出鱈目を書き加えた!

つまり、敵陣で敵兵を斬ったという東京日日新聞(毎日新聞)の当時の「武勇談」(作り話)は、20年以上経っていつのまにか朝日新聞の本多勝一によって無抵抗の捕虜の「据えもの斬り」競争に摩り替えられたのだった!

それでも、東京日日新聞の後身である毎日新聞社は、平成元年(1989年)に自社発行した『昭和史全記録』という本のなかで「百人斬りは事実無根だった」(P178)と記述している。


慰安婦に関する上記の記述についても、完全なでっち上げの嘘っぱちだ。

日本が慰安婦を強制した事実は全くない。

慰安婦強制の事実が全くないことは日韓の研究で決着済みだが、米国の公文書からも確認できるはずだ。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html
■1.米軍がレポートする慰安婦の実態■

…彼女たちの暮らしぶりは、贅沢であった。

慰安婦は接客を断る権利を認められ、負債の弁済を終えた何人かの慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。

また、ビルマのラングーンで慰安婦をしていた文玉珠さんの手記では、その生活ぶりを次のように語っており、米軍のレポートを裏付けている。

支那マーケットにいって買物した。ワ二皮のハンドバッグと靴を買い母のためにもなにか買った。将校さんに連れられてジープに乗って、ぺグーの涅槃像をみに行った。

ちなみに文玉珠さんは、平成4年に日本の郵便局を訪れ、当時貯めた2万 6145円の貯金返還の訴訟を起こして敗れている。千円もあれば故郷に家が一軒買えると体験記で述べているが、現在の貨幣価値なら、4~5千万円程度の金額を、3年足らずで貯めたことになる。
彼女たちは実に明るく楽しそうだった

また、上記の米国陸軍が1944年、ビルマ(現ミャンマー)で朝鮮人慰安婦20人を尋問した調書(ナンバー49)の他にも、米国陸軍の別の書類が出てきている。

テキサス親父(トニー・マラーノ氏)が、米国陸軍の別の書類についてレポートしている!

【痛快!テキサス親父】慰安婦問題の決定的資料を見つけたぜ 米陸軍の公文書に興味深い記述

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20160325/dms1603251140005-n1.htm
【痛快!テキサス親父】慰安婦問題の決定的資料を見つけたぜ 米陸軍の公文書に興味深い記述
 


【痛快!テキサス親父】慰安婦問題の決定的資料を見つけたぜ 米陸軍の公文書に興味深い記述


その他、日本には、慰安婦について、強制連行どころか、逆に日本の官憲が悪徳朝鮮人女衒などを取り締まっていた資料などが山のように存在している。

むしろ、戦争当時、日本の官憲は、朝鮮人の女衒に誘拐された朝鮮人女性を救出したりしていた。
日本の官憲は悪徳女衒(鮮人)に誘拐された朝鮮の女性を救出していた

日本の官憲は悪徳女衒(鮮人)に誘拐された朝鮮の女性を救出していた
日本の官憲は悪徳女衒(朝鮮人業者)に誘拐された朝鮮の女性を救出していた!

最初に述べたとおり、日本は原爆を投下されるよりもかなり早くから戦争を終わらせたい意思をアメリカに伝えていた。

それでも、アメリカは、戦争を終わらせたい日本の意思を無視し、日本への原爆投下を強行したのだ。

日本政府は少なくとも1945年5月に降伏の打診をしているが、この打診は米政府によって公式に無視、あるいは拒否された。
事実、1944年の早い段階から、日本政府の内部では完全敗北とみなしうる条件の受け入れが真剣に検討されていたのだ。

 1945年2月には早くも、和平打診に関する情報がアメリカの新聞で報道されている。
当時、この提案は公式に無視、ないしは否定されたが、ようやく、その事実を裏付ける証拠が出てきた。
3月には日本政府が和平交渉の可能性を模索していたことは事実だ。


中略

ポツダム宣言の内容は、よくいえば「厳しく、贖罪的」、悪くいえば、経済条項は極めて漠然としていたし、特定されない戦争犯罪人の追及があまりに広範で曖昧だったから、それが指導部と全国民に対してもつ意味を理解できるものには、ただちには受け入れ難いものだったのも当然である。
しかし、その過酷な条件にも拘らず、6首脳のうち3人は即時受諾に賛成していたのだ。

 しかし、私たちは和平支持派に反対勢力を説得する時間的余裕を与えなかった。
私たちはたった11日間待っただけで、いきなり1発の原子爆弾を、そしてさらにもう1発を、戦艦の上でもない、軍隊の上でもない、軍事施設の上でもない、頑迷な指導部の上でもない、2つの都市の約20万の市民の上に投下した。


しかし、米戦略爆撃調査の公式報告は、そのような「ショック」は必要なかったというのだ。

 同報告は、原子爆弾が投下されなくても、あるいはソ連が参戦しなくても、また上陸作戦が計画ないし検討されなくても、日本は「あらゆる可能性を考えに入れても1945年11月1日までに」無条件降伏をしていただろうという意見である。


古今東西、降伏条件が不明確なまま降伏をする無責任な国家指導者など居るわけがないし、絶対に居てはならない

米国は、条件をきちんと示せば日本がすぐに降伏することを知っていたが、原爆を投下するまでは何が何でも日本に降伏させたくなかったため、ポツダム宣言の条件をわざと不明確にした。

 

「米国の大ベストセラーは、酷い捏造本だ!」