陛下、神風特攻隊、フィリピンに感謝! | 旗本退屈女のスクラップブック。
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フィリピンで英雄!神風特攻隊・カミカゼ記念碑、銅像、慰霊祭などで称賛・天皇陛下、戦没者への思い

最初に神風特攻隊が飛び立ったフィリピンのマバラカット飛行場跡にある特攻隊員の銅像
フィリピンで英雄!神風特攻隊・カミカゼ記念碑、銅像、慰霊祭などで称賛・天皇陛下、戦没者への思い
神風特攻隊が最初に飛び立ったフィリピンでは、英雄として特攻隊員の銅像や記念碑を設置し、慰霊祭まで開催し、その武士道精神を讃え続けている。


http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20160128-00000004-nnn-soci
天皇陛下、晩さん会で“戦没者への思い”
日本テレビ系(NNN) 1月28日(木)0時55分配信

国賓としてフィリピンを訪問している天皇皇后両陛下が27日、大統領主催の晩さん会に出席された。

マラカニアン宮殿で行われた晩さん会では、天皇陛下の戦没者に対する思いの強さと、アキノ大統領の両陛下への尊敬の深さが伝わってきた。晩さん会で天皇陛下は、太平洋戦争で、日米両国のし烈な戦闘により多くのフィリピン人が命を失い、傷ついたと改めて述べられた。

天皇陛下「このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、このたびの訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます」

一方、アキノ大統領は「両国の歴史に影を落とした時期に、他者が下した決断の重みを背負ってこられねばならなかった」と両陛下に対する畏敬の念を語り、「人生のこの時点でお越しくださる選択を思うと、いっそう意義深い」と挨拶した。

晩さん会に先立ち、両陛下は27日、フィリピン人の戦没者を慰霊されたが、29日には日本人戦没者の慰霊碑で供花される予定。



フィリピンは、大東亜戦争において、次の2点で特殊な国だった。

1つは、他のアジア諸国と異なり、フィリピンでは日本軍の敵も多く、フィリピン人の間でも日本側とアメリカ側に分裂して戦闘を繰り広げたことだ。

大東亜戦争が始まると、他のアジア諸国は、ほぼ完全に日本の側にまわり、英国やオランダやフランスなどから独立するために日本軍に協力した。

ところが、フィリピンでは、アメリカ側に付いて抗日ゲリラとなる者も多かった上に、共産ゲリラなども多く、これらの敵は日本軍を大いに苦しめた。

日本の敵となったフィリピン人勢力は戦況によっても変化したが、フィリピンほど日本の敵となって戦った現地人が多い国は他にはなかった。

そして、もう1つ、フィリピンが大東亜戦争で日本にとって特殊な国だったのは、最初の神風特攻隊が飛び立ったのがフィリピンだったということだ。

カミカゼが1944年10月20日にマバラカットで誕生した
「カミカゼ」神風特攻隊は1944年10月20日に、フィリピンのマバラカットで誕生した。

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■フィリピンに建てられたカミカゼ記念碑■

フィリピン人ダニエル・ディソンが奔走してフィリピン政府により建立されたカミカゼ記念碑がある。
このあたりは先の大戦中、日本軍が使用していたマバラカット飛行場であり、ここから最初の神風特別攻撃隊が飛び立った。
記念碑には、ディソンが書いた次のような碑文が記されている。

『第2二次大戦終結までに、カミカゼはアメリカ軍艦を総計322隻撃沈または大破、9000人以上の海軍軍人を戦死させ、一方、5000人のカミカゼ隊員の内4600人が自殺攻撃にて戦死した。カミカゼは、世界史上比較しうるもののない全く大胆不敵なものであった。
歴史的調査が明らかにしたところによれば、カミカゼを支えた信条とは、世界のすべての民族に対する機会の均等と親睦が、自らの死によって実現されることを心底から願って自らの身を捧げたカミカゼ志願者達の思いである。』


ディソンが大戦中に日本軍人と出会ったのは11歳の時であった。一人のフィリピン少年はどのような思いで、このような記念碑を造るに至ったのであろう。

■12月の深い青色の空に白く輝く機体■

1941(昭和16)年12月8日、午後1時頃、昼食を終えたディソン少年が立ち上がった所で、突然地面が揺れ、窓がガタガタと鳴った。祖父が「地震だ、地震だ」と叫んだ。

その後に、ゴーという低い轟音がして、続いて、ポップコーンが破裂するような音が空から降ってきた。窓に駆け寄って空を見上げると、小さな破裂した煙がいくつも見え、そのはるか上に爆撃機の編隊が二つ見えた。初めて見る日本軍だった。地震だと思ったのは、その爆撃機が落とした爆弾だった。近くにあるクラーク飛行場は、アメリカ軍の極東での主力基地である。そこを日本軍が急襲したのだった。

祖父は「何故日本がこんなところを攻撃できるんだ。日本はずっと遠くにあるはずじゃないか」と叫んでいた。祖父は新聞で日中戦争の事を知っており、また近くに住む中国人が日本人は残虐だと触れ回っていたので、日本軍をとても恐れていた。

「もちろん私は日本軍をとても恐れてはいました。しかし、その時心の中では密かに日本軍のことを賞賛していました。
何しろ決して敗れないはずの白人を、私達と同じアジア人の日本人がやっつけているのですから。
私達は皆、日本の爆撃機の数を数えていました。私はその光景を忘れません。12月の深い青色の空に機体が白く美しく見えました。」


■日本兵から貰った乾パンと金平糖■

年が明けて1月1日、日本軍がディソンの住むアンヘレスの町にもやってきた。アメリカ軍とその指揮下にあるフィリピン兵たちは、散発的な抵抗をしながらも、南に逃げていった。

ディソンの一家は戦闘を逃げて、深い谷間に数日隠れていたが、ようやく静かになったので、町に戻ってきた。町には大勢の日本兵がいた。ディソン少年の伯父はマニラで日本人と働いたことがあるので、「『アリガト』と」と、教えてくれた。
そこで、ディソンらが「アリガト! アリガト!」と言うと、日本兵はみな笑い出した。何かひどい扱いを受けるのではないかと心配していたディソンは、少しほっとした。

日本兵たちは、ポケットから何かを出して、子供達に渡した。
ディソン少年も一つ貰ったが、それは布でできた小さな袋で口をひもで縛るようになっていた。巾着である。明けてみると、小さな四角いビスケット(乾パン)と砂糖のボール(金平糖)が入っていた。
それが、ディソンが日本兵からもらった最初のものだった。

■日本軍将兵とフィリピンの子供達■

ある時、ヤマカワ中尉はディソンが描いた絵を見て、「うーん、ベリーグッドじゃないか」と言った。そして時々、白い紙を鉛筆をくれて、自分や部下の絵を描かせた。

妻子を故郷においてフィリピンに駐屯している日本軍将兵たちにとって、フィリピンの子供達は心を和ませてくれる存在だったようだ。

後にディソンの妻になるエンリケッタも、アンヘレスのすぐ南のポラックという町に住んでいて、似たような経験をしている。近くに日本軍の飛行場があり、毎日そこに行って、雑草を引き抜く仕事をしては1ペソ貰う。やがて背の低いがっりとした体格の日本兵が、エンリケッタによくキャンディーやクッキーをくれるようになった。

エンリケッタは飛行士たちとも仲良しになった。飛行士の一人はエンリケッタを抱き上げて、戦闘機の翼の上に乗せ、その特設ステージで、エンリケッタは得意の歌と踊りを披露した。
司令官のマエダさんはそんな光景をいつも見ているだけだったが、ある時、エンリケッタが熱を出して二日も基地に行かないでいると、トラックで家まで見舞いに来てくれた。そして袋一杯のキャンディーとクッキーを置いていってくれた。

■鉢巻きをした日本軍の飛行士たち■

しかし、1944(昭和19)年になると、戦局が悪化し、食糧事情も悪くなっていった。共産ゲリラや親米派ゲリラの活動が活発になり、親日派の市長や警察署長、そして日本兵の暗殺が行われるようになった。日本軍そのものが幹線道路で待ち伏せ攻撃を受けるようになり、日本の将兵は疑い深くなっていった。
ゲリラを支援した人間や、ゲリラとの疑いをかけられた人々が処刑された。

9月21日、アメリカ軍の飛行機がアンヘレス周辺にあるすべての飛行場を爆撃した。それからは毎日、空襲があった。
その頃から、アンヘレスで鉢巻きをした日本軍の飛行士たちを見かけるようになった。日本の兵隊たちは、彼らと街で会うと、お辞儀をしていた。

ある晩、この飛行士たちが泊まっている家からピアノの伴奏が始まり、いろいろな軍歌が聞こえてきた。悲しい調子の曲も流れた。その一つが「海ゆかば」だった。そして翌朝、彼らは飛び立つと、二度と帰ってこないのだった。
こうした事が繰り返されたが、ディソン少年を含めフィリピン人たちは、彼らがどういうことをしているのか、知らなかった。

(後半)
■かつて大東亜戦争の”天王山”とまでいわれたフィリピン決戦■

圧倒的物量にものをいわせて押し寄せる米軍に、反撃を試みる日本軍に残された手段は、もはや250kgの爆弾を抱えて敵艦に体当たりする特攻攻撃しか残されていなかった。

昭和19年10月25日、関行男大尉の率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」の5機は、ルソン島西部のマパラカット飛行場から出撃し、レイテ湾のアメリカ艦隊に突入していったのである。

敷島隊
敷島隊

この特攻攻撃を皮切りに、終戦までに陸海軍合わせて3375機の特攻機が出撃し、4279名の命が散った。
もっとも、特攻攻撃を受けて沈没・損傷した連合軍艦艇は350余隻を数え、連合軍将兵を震えあがらせた。

この特攻攻撃を皮切りに、終戦までに陸海軍合わせて3375機の特攻機が出撃し、4279名の命が散った。

■神風特攻隊はフィリピンで英雄だった■

こうした神風特攻隊も、戦後の日本では「戦争の悲劇」の代名詞としてしか語られていない。

ところが、「カミカゼ」を生んだフィリピンではその捉え方がまったく違っていた。

大東亜戦争における日本の精神的象徴ともいえる神風特攻隊は、フィリピンの人々に敬われ、そしてその勇気が称賛されている。

平成12年10月25日、フィリピンでは、パンパンガ州マバラカットをメインに、タルラック州バンバン、同州カパスの3か所で、「神風特別攻撃隊」をはじめ、戦没者の慰霊祭が挙行された。

慰霊祭のメイン会場になったマバラカットは、首都マニラの北方約80kmに位置し、戦時中には日本の「神風特攻隊」の飛行基地があった。

フィリピン空軍軍楽隊の奏でる勇壮な「軍艦マーチ」が、マバラカット飛行場を見下ろすリリー・ヒルの大地を揺さぶった。

慰霊祭の取材にやって来た、フィリピン人ジャーナリスト、ジョジョ・P・マリグ氏は語る。

「この式典は日本とフィリピンの関係を知るよい機会です。私は先の大戦で戦ったすべての愛国者は”英雄”だと考えています。とりわけその尊い生命を国家に捧げた神風特攻隊員は英雄です」

式典に参列した、ダニエル・H・ディゾン画伯は静かに語る。

「いまから35年前に私は神風特攻隊の本を読みました。涙がとまらなかった。・・・こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかったからです。同じアジア人として、このような英雄がマバラカットと私の町アンヘレスで誕生したことを”誇り”に思っています」

「当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の”抵抗”だったといえましょう」


■「カミカゼ・パイロットはヒーローです」■

同じ10月25日、タルラック州バンバン村でも神風特攻隊の慰霊祭が行なわれた。
この村でも地元住民は村を挙げて日本の慰霊囲を歓迎した。
「カミカゼ・パイロットはヒーローです」神風特攻隊はフィリピンで英雄・カミカゼ記念碑や慰霊祭などで称賛・天皇陛下、戦没者への思い

式典に参加した地元サン・ロック高校の女子学生達は声を揃える。
「Brave!」(勇敢)

その中の一人が続けた。
「フィリビンにも”英雄”はたくさんいます。ですから私達も神風特攻隊という日本の”英雄”をたいへん尊敬しています。」

私は学生達にもう一度訊いた。
「君たちは、カミカゼのパイロットを尊敬しているのですね?」

屈託のない笑顔でフィリピンの女子高校生たちは答えた。
「もちろんです! だって、あの人たちはヒーローですもの」

そして、日本からの慰霊団が会場を去ろうとしたとき、驚嘆すべき出来事がおこった。

濛々と立ちあがる砂ぼこりとともに、歓声を上げて「日の丸」の小旗を振る子供たちの一団が押し寄せてきたのだ。
わが目を疑った。
弾けるような笑顔と歓声にあふれた子供たちの「日の丸行進」は途切れることはなかった。

帰路につこうとする我々を子供達は「日の丸」の小旗をちぎれんぱかりに打ち振って見送ってくれたのである。
タルラック州バンバン村でも神風特攻隊の慰霊祭が行なわれ、子供達の「日の丸」行進はどこまでも続いた。

日本人参列者はこの光景に胸を詰まらせていた。
頬を濡らす者もいた。
この光景を目の当たりにして、もはやこみ上げる感情を抑えきれず、嗚咽を漏らしてしまった。

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ピナツボ火山の噴火で埋もれてしまったが、特攻隊飛行場跡の慰霊碑建立に奔走したディゾン画伯(肖像画は画伯の手になる特攻隊員のもの。左上が関行男大尉)
ディゾン画伯(肖像画は画伯の手になる特攻隊員のもの。左上が関行男大尉)
(前半)
Japan On the Globe
フィリピン少年が見たカミカゼ
なぜカミカゼの記念碑がフィリピンの地に建てられたのか。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog524.html
(後半)
井上和彦
神風特攻隊はフィリピンで英雄だった
http://www.geocities.jp/kamikazes_site/gaikoku_kamikaze/kamikaze_philipine.html
【賞賛される日本】フィリピン・ルソン島で経験した神風特攻隊の慰霊祭
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20140129/frn1401290719000-n1.htm



神風特攻隊はフィリピンで英雄・カミカゼ記念碑や慰霊祭などで称賛・天皇陛下、戦没者への思い
■動画
フィリピンで語り継がれる特攻精神
https://www.youtube.com/watch?v=HknYSn-sGtU
【KSM】フィリピン少年が見たカミカゼ なぜカミカゼの記念碑がフィリピンの地に建てられたのか。
https://www.youtube.com/watch?v=Jd8xa-nQJEc
神風特攻隊 「命の使い方」~日本人として知っておきたいこと~
https://www.youtube.com/watch?v=5w5TC4ppsIE#t=79
泣ける【静ちゃんへの手紙】~神風特攻隊員の兄と幼き妹~
https://www.youtube.com/watch?v=nQ0AN524pF4&feature=youtu.be

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