二十世紀を変えた山下奉文閣下の軍刀 | 旗本退屈女のスクラップブック。
西村眞悟の時事通信


平成28年1月17日(日)

 先の時事通信で、天皇皇后両陛下のフィリピン行幸啓に関して書き、
 フィリピンで戦った第十四方面軍司令官山下奉文閣下の名を記させいていただいた。
 そこで、どうしても、山下奉文軍司令官に関してお伝えしたいことがあるので記しておく。

 以前、防衛大学校生徒が、
 大学のある横須賀から徒歩で靖国神社まで来て参拝することを、
 えらい、えらいと褒め称えた人がいた。
 その時、私の横にいた八十歳を超えた中嶋慎三郎さんが、
 「何を言うか、それほどの距離、何のこともない、
  俺たちは山下閣下と共に、
  マレー半島千キロを敵を粉砕しながら五十数日間で踏破したんだ」と言った。

 そのマレー攻略戦は、大東亜戦争の緒戦の帰趨を決する世紀の作戦であった。
 世上、海軍機動部隊による真珠湾攻撃を大東亜戦争を告げる象徴的作戦としているが、
 その真珠湾攻撃に先立って、
 第二十五軍は密かにマレー半島東岸のコタバルに敵前上陸を開始していた。
 時に、昭和十六年十二月八日未明。
 その第二十五軍を率いていた軍司令官が山下奉文中将である。

 以後、第二十五軍はマレー半島を千百キロ南のシンガポールまでほぼ五十日で南下して行く。
 しかし、そこは人跡未踏のジャングルであり
 二百五十以上の破壊された橋梁を修復して渡河しなければならなかった。
 
 しかし、第二十五軍は、一日の行軍速度が平均二十キロに達した。
 平坦な草原を行くドイツ機械化部隊による電撃作戦が一日十八キロであるから、
 山下奉文中将率いる第二十五軍の進撃の速さが、
 如何にイギリス軍に衝撃を与えたか想像できよう。

 そして、昭和十七年二月十五日、
 第二十五軍はシンガポールを陥落させた。
 
 このシンガポール陥落こそ、五百年の白人によるアジア支配の象徴の陥落であり、
 二十世紀における人類の歴史を変えた重大事件であった。
 従って、それを為した山下奉文軍司令官は、
 明らかに「世紀の名将」である。

 その山下奉文将軍は、後に大将となり勲一等旭日大綬賞を受け、
 昭和十九年、フィリピン戦線の第十四方面軍司令官にとしてフィリピンに赴任する。
 そして、激烈かつ凄惨な戦いの末、
 敗戦により昭和二十一年九月三日、アメリカ軍に投降する。

 連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーは、
 昭和十七年四月、日本軍の猛攻から七万六千名の部下を見捨てて
 フィリピンのバターン半島から脱出するという
 軍人として実に不名誉な逃亡をした男であるが、
 またそれ故に、
 直ちに山下将軍を「戦犯」として扱い裁判を開始し、
 シンガポールやマニラでの住民虐殺の罪により死刑の判決をえて(十二月七日)、
 翌昭和二十一年二月二十三日、山下将軍を囚人服のまま絞首刑に処して殺害し、
 遺体は附近の何処かに埋める。
 マッカーサーは、山下将軍の軍人として名誉を徹底的に貶めたのだ。

 その上で、皆さんに知っていただきたいことがある。
 それは、
 アメリカの陸軍士官学校のあるウェスト・ポイントの校庭には、
 左右に大きなアイゼンハウアーとマッカーサーの像が建っているのであるが、
 その資料館には、
 マッカーサーが徹底的に名誉を奪って殺害した山下奉文閣下の、
 所持していた軍刀が展示されているということである。

 日露戦争において、乃木希典将軍が、
 敵の将軍ステッセルを「昨日の敵は今日の友」と敬意を以て接したうえで、
 ステッセルの軍刀を展示しているのとは天地ほど違う。
 ウェスト・ポイントの山下閣下の軍刀は、
 「戦犯・犯罪者の所持した凶器」
 として展示されているのである。
 これは、単にウェスト・ポイントが、
 山下閣下に対する侮辱をマッカーサーから引き継いで七十年間続いているに留まらず、
 日本民族に対する侮辱を七十年間続けていることではないか。

 よって、我々日本人は、アメリカに対して、
 ウェスト・ポイント陸軍士官学校の山下奉文閣下の軍刀を
 日本の靖国神社に返還するように要請を行う時が来ていると思うのである。
 諸兄姉は、どう思われるか。
 私は一年前に、ウェスト・ポイント陸軍士官学校の資料館で
 山下奉文閣下の軍刀を見てから、
 あの閣下の軍刀を日本に帰還させなければならないと常に思いつづけているのである。

 なお、マッカーサーがバターン半島のコレヒドールから逃げ出すこととなった
 日本軍のバターン半島総攻撃は、
 当時の本間雅晴軍司令官による
 昭和十七年四月三日午前〇時五十三分のバターン半島総攻撃命令によって開始された。
 
 それ故、マッカーサーは、本間雅晴中将を、
 昭和二十一年四月三日午前〇時五十三分に銃殺によって殺した。
 この時、本間中将は略式軍装を許されて絞首刑ではなく銃殺されたので、
 マッカーサーは本間中将の武人の名誉を慮ったといわれているが、
 マッカーサーの性格として、それは絶対に違う。
 マッカーサーは、単に、本間中将がバターン半島総攻撃を命じた午前〇時五十三分ドンピシャリに
 本間中将を殺す為に銃殺を選んだだけである。