御製に涙して | 旗本退屈女のスクラップブック。
西村眞悟の時事通信


平成28年1月16日(土)

 私の親しくしていただいている方に、
 昭和十九年三月、東京から父の実家がある千葉の南房総に疎開した方がいる。
 四人姉妹の長女で一人で疎開した。
 父は実家から東京に戻るまでの一週間、毎日夜は眠りにつくまで抱きしめてくれた。
 別れ際に、見送りに行った峠で、
 父は、娘を抱きしめて言った。
 「どこにいてもお父さんはお前のことを見守っているよ、
  寂しくなったら靖国神社に会いに来なさい」

 父は何度の振り返りながら、遠ざかっていった。
 七歳の娘は、涙をこらえ唇をかみしめるのがやっとだった。

 終戦の日は、母も妹たちも父の実家にいた。
 戦争が終わった、お父ちゃまが帰ってくる、と部屋の中をスキップして廻った。
 
 しかし、昭和二十二年十一月、父は白木の箱に入って帰ってきた。
 軽い箱を開けると、
 父の名を記した一枚の紙だけがあった。

 父の最後の様子は、長いこと分からなかった。
 二十七年後の昭和五十二年、
 母とルソンに慰霊に行ってから情報が入るようになった。
 そして、遂に分かった。
 父は、ルソンで機密文書を抱えて山林を転戦し、
 最後は、その文書を焼却して、
 爆弾を抱えて敵戦車に突っ込み、
 五体四烈して散華した。
 昭和二十年七月、終戦一ヶ月前、三十八歳だった。
 
 それから娘は、
 何十回となくフィリピンを訪れ、遺族らの情報収集を助け、
 父ら国のために殉じた英霊の慰霊を行ってきた。
 
 フィリピン戦線の戦死者は、三十四万人である。

 数年前、フィリピンでの行われる遺骨収集がマスコミで報道されたとき、
 彼女は私に言った。
 私の父は、爆弾を抱えて戦車に突っ込んだのです。
 遺骨はありません。

 この度、フィリピン大統領からの招請を受け、天皇皇后両陛下はフィリピンに行幸啓される。
 その御日程は、
 一月二十六日、東京ご出発。
 一月二十七日、二十八日、マニラ御滞在
 一月二十九日、カリラヤ御到着
        ロスパニョス御到着
        マニラ御到着
 一月三十日、東京御着

 カリラヤ、ロスパニョス、まさに、慰霊地ではないか。
 天皇皇后両陛下は、カリラヤの日本庭園にある「比島戦没者乃碑」に献花され祈りを捧げられる。
 
 天皇皇后両陛下は、遂に、フィリピンで、
 第十四方面軍司令官山下奉文陸軍大将をはじめとする陸海軍戦没将兵三十四万人の慰霊をされる。

 そして、慰霊される天皇皇后両陛下とともに、
 七歳の時に父と別れた彼女もカリラヤの「比島戦没者乃碑」に慰霊する。

 昨年の末、彼女から、
 「私も陛下と共にカリラヤの慰霊地に入ることを許されているんですよ」
 と聞いたとき、思わず込み上げるものがあり目に涙がにじんだ。

 峠で振り返り振り返り、幼い娘と別れていった父上が、
 如何ほど慰められ喜ばれるかを思うと泣けてくる。

 いよいよ年が明けて、
 フィリピン行幸啓の一月に入った。
 そして、十四日の「歌会始めの儀」が宮中で行われた。

 その御製は、
      戦ひにあまたの人の失せしとふ島緑にて海に浮かふ

 これは、昨年四月九日、
 天皇皇后両陛下が、玉砕の島ペリリュー島の慰霊碑から
 五キロほど沖に浮かぶ同じく玉砕の島アンガウル島をのぞまれて詠まれた御製である。
 私は、
 両陛下のその慰霊の時にペリリュー島にいて、そのお姿に涙したのだ。

 
 此の度の歌会始めの御製を拝し、
 沖縄、硫黄島、サイパン、そして
 昨年のパラオのペリリューとアンガウル、そして
 本年のフィリピンのルソンとレイテへと、
 天皇の戦没将兵を思う大御心は、一日たりとも途切れることなく流れている、
 私の心は、この思いに満たされた。

 私は、御製を拝したとき、車の運転をしていた。
 涙が込み上げてきて困った。