回想の二・二六事件 | 旗本退屈女のスクラップブック。
西村眞悟の時事通信



平成27年2月26日(木)

 昨日二十五日、産経新聞朝刊は、
 七十九年前の二・二六事件において、警視庁占拠に加わった歩兵第三聯隊第七中隊の兵士だった志水慶朗さん(九十八歳)の回想を写真とともに掲載していた。
 志水さんら聯隊の兵士は、当日未明、上官から実弾を渡された。
 また、警備に立つ際には、「尊皇」と言えば「討奸」と答えよと合い言葉を教えられた。
 午前四時、隊列を組んで麻布の聯隊から足跡一つない新雪を踏んで警視庁に向かった。
 警視庁前の桜田門で三十センチも降り積もった雪の上に腹ばいになって軽機関銃を警視庁に向けていると、
 警視庁屋上から兵士が旗を振って警視庁占拠完了を知ったという。
 さらに、NHKは、昨夜、
 事件当時、侍従長をしていて官邸で第三聯隊に銃撃された鈴木貫太郎の奥さんの録音テープを公開していた。

 そこで私は、本時事通信で「回想の二・二六事件」と題して、
 体験者のように、本事件について書こうと思う。
 私は、昭和二十三年に生まれた。
 従って、昭和十一年の二・二六事件を「回想」できる世代ではない。
 しかし、母の「回想」の中では、私は、二・二六事件当時にいたことになっている。
 
 明治四十二年一月に、東京神田で生まれた母は、
 平成十四年に九十四歳で亡くなる直前、穏やかな日々を過ごしていた。ある日二人で座っているときに、
 私に尋ねた。
 「眞悟ちゃん、あんた、二・二六の時、何処におったんやったかなあ」
 その時、母は、二・二六事件を回想し思い出そうとしていた。
 
 五十歳を過ぎても、母から「眞悟ちゃん」と呼ばれている私の方は、
 あれ、とうとう呆けてきたのか、と思ったが、
 二・二六事件は、母の回想のなかにありありとあることを知った。
 それで、母の体験した「回想の二・二六事件」としたのである。

 さて、
 「昭和天皇実録」が公表されてから初めて迎える二月二十六日なので、
 「実録」からその概略を記す。
 
 昭和十一年二月二十六日
 午前五時四十五分、
 当番侍従甘露寺に次の一報が入る。
 侍従長官邸が襲われ鈴木貫太郎重傷、内大臣私邸が襲われ齋藤實即死。
 六時二十分、天皇、起床
 七時十分、侍従武官長本庄繁に謁を賜い、
  事件の早期終息を以て禍転じて福となすべき旨のお言葉を述べられる。
 十一時十三分、陸軍大臣に速やかな鎮定を命じられる。
 十一時二十八分、枢密院副議長平沼騏一郎以下枢密院顧問官ら十五名に定例の謁を賜う。
 午後六時七分、岡田内閣総理大臣、重大なる故障により職務を執ること能わざるに至りたるを以て、
 内閣総理大臣臨時代理後藤丈夫に、
  速やかに暴徒を鎮圧すべき旨、秩序回復まで職務精励すべき旨、のお言葉を述べられる。
 
 二月二十七日、
 午前0時、戒厳令に関する勅令に御署名なさる。
  七時二十分、侍従武官長本庄繁(この日十二回拝謁)に、
  自ら最も信頼する老臣を殺傷することは真綿で我が首をしめるに等しい、
  自ら暴徒鎮圧に当たると述べられる(二十八日にも同じことを語られる)。
 九時三十五分、侍従長の容態につき奏上(この日より一日一回)
 
 二月二十八日、
 午前七時三十八分、侍従武官長本庄繁の拝謁(この日、十五回拝謁)
  正午、陸軍調査部長山下奉文より、首謀者一同自決して罪を謝して下士以下は原隊に復帰させる故、
 自決に際し勅許を賜りたい旨の申し出があったことにつき言上を受けられる。
 これに対し、
   非常な御不満を示されご叱責になる。
 次いで、第一師団長堀丈夫が、部下の兵を以て部下の兵を討ち難いこと発言している旨の言上を受けられ、
   自らの責任を解さないものとして厳責され、
   直ちに鎮定すべく厳達するよう命じられる。

 以上、「昭和天皇実録」より。まことに明解。

 
 フランス人記者ロベルト・ギランは、
 東京特派員に任命され、パリからシベリア鉄道そして満州を経由して東京に着任して数日が経った
 二月二十六日の朝、首相官邸付近で騒乱との話を聞いて霞ヶ関に駆けつけた。
 反乱軍兵士が霞ヶ関の道路を封鎖していてそれ以上進めなかったが、
 数名の紳士が立っていたので彼らに近づいて尋ねた。
 「クーデターか」
 すると一人が振り返って答えた。
 「天皇の国にクーデターはない」

 齋藤實内大臣(前総理、海軍大将)、渡辺錠太郎陸軍教育総監(陸軍大将)、高橋是清(前総理)は即死し、鈴木貫太郎侍従長(海軍大将)は重傷を負ったが奇跡的に助かった。

 齋藤内大臣の遺体からは四十数発の弾丸が摘出された。
 妻の春子は、夫を撃ち続ける青年将校達の前に立ちはだかり銃口をつかんで
「撃つなら私を撃ちなさい」と発砲を制止させようとしたため、腕に貫通銃創を負った。 
 彼女は、昭和四十六年まで生き九十八歳で亡くなった。

 高橋是清は、警護の巡査が奮闘したが倒れ、拳銃で撃たれたうえ、軍刀でとどめを刺され即死した。

 渡辺錠太郎は、危険を感じて九歳の娘和子を近くの物陰に隠して拳銃を構えたが、
 襲撃部隊の機関銃掃射によって即死した。
 和子は、父の足の骨が剥き出しになり肉片が周囲に飛び散るのを目前で見ている。
 
 渡辺和子は成人して、カトリックのシスターになった。
 今、私の手元には、渡辺和子が最近出版した次の本がある。
  「面倒だから、しよう」、
 「置かれた場所で咲きなさい」
   ノートルダム清心学園理事長渡辺和子著、幻冬社

 鈴木貫太郎は、大阪府堺市の久世地区で生まれ、四歳まで堺で育った。
 当日、今の千鳥ヶ淵戦没者墓園の近くの侍従長官邸にいるところを安藤輝三大尉の指揮する部隊に襲われ、
 頭部や胸に銃弾四発を打ち込まれた。
 血を吹き出して転倒した鈴木に、安藤大尉がとどめを刺そうとすると、
 妻たかが、安藤に「老人ですからとどめは刺さないでください」と言った。
 
 安藤はとどめを刺さずに鈴木に敬礼し部隊を率いて立ち去った。
 安藤は、以前、鈴木と会って話をしたことがあり、鈴木のことを
 「西郷隆盛のような人で懐が大きい人だ」と言っていたという。
 
 さて、昏倒した鈴木は、一時は心肺停止の危篤状態になった。
 その時、妻のたかが鈴木の耳元に口を近づけて、「あなた、しっかりしなさい」と叫んだ。
 すると、鈴木は、目を開いて以後回復に向かったといわれている。

 この鈴木貫太郎は、昭和二十年四月、
 昭和天皇の「時局を収拾するのは卿しかいない」との大命を受けて
 最後の江戸時代生まれの内閣総理大臣に就任し、
 大正時代から篤い親交のある枢密院議長平沼騏一郎とともに、
 最も困難な「終戦」へと日本の舵を取って行く。
 その任を全うした昭和二十年八月十五日、内閣総辞職。そして、二十三年四月十七日死去。
 
 荼毘に付した鈴木の遺体からは、二・二六事件の際に受けて体内に留まっていた銃弾が出てきた。
 鈴木貫太郎は、終戦の大任を全うするために、
 二・二六事件を生き抜かされていたのだ。

 同時に、感銘を受けることは、
 齋藤實の妻春子、鈴木貫太郎の妻たか、
 そして他の反乱軍兵士による早朝の襲撃を受けた重臣達とその妻は、
 等しく立派な態度を持して取り乱していないことである。
 
 このこと、二・二六事件の特筆すべきことであろう。
 これは、我が国の伏流の如き伝統である。
 東日本大震災における被災地の人々の「雄々しさ」がそれを示している。

 ところで、反乱軍は、
 何故、首都の麻布に駐屯する歩兵第一聯隊と歩兵第三聯隊が主力となったのであろうか。
 これらの聯隊は、ともに明治七年に創設され、
 以後、西南の役から日清日露の激戦を主力となって戦ってきた最も誇りある聯隊である。
 
 この私の疑問に、「なるほど」と思う指摘をされているのは、
 「日露戦争と日本人」(かんき出版)を書かれた鈴木荘一氏である。
 陸軍統帥部は、日露戦争において彼らの聯隊を最難戦に投入しながら、
 勇戦奮闘して勝利に一番貢献し、最も激しく消耗した彼らに、
 最低の「不活発」という評価を与え続けたからである。
 鈴木荘一氏の著書から、その箇所を引用させていただく。
 
 歴史とは、
 思いもよらないところから動き出し、
 思いもよらないことろに展開の秘密が隠れているものである。
 二・二六事件に関して言えば、
 その事件の勃発は前者であり、
 「終戦」を為し遂げた鈴木貫太郎の妻の「とどめは刺さないでください」という安藤大尉に対する言葉は後者であろう。

 「金州南山戦、旅順要塞の松樹山・二〇三高地攻防戦、奉天会戦と、休む間もなく、
 連続して最大激戦地に投入され、最も激しく消耗した第一師団の第一線を担う青年将校の間では、
 この後も、陸軍統帥部に対する根深い不信が語り継がれた。
 そして、時が流れて昭和の初期。
 内外情勢が深刻化すると、この伏流水は二・二六事件となって、一気に噴出するのである。」

 
 最後に、母のことを記すのをお許し頂きたい。
 昭和十一年二月二十五日の夕方、
 ピアニストであった母は、丸の内の劇場に演劇を観に行った。
 その劇が終わって外に出ると、
 外は一面の銀世界に変わっていて雪に埋もれた道路には都電が放置されて動かない。車も動いていなかった。
 仕方なく母は、着物の裾を持って雪の中を歩いて高橋是清邸と豊川稲荷の近くの家に戻る。
 翌朝目覚めると、周囲は騒々しく、ラジオのスイッチを入れると、
 ラジオから「流れ弾の恐れがあるので、附近の人は箪笥の陰に隠れて流れ弾を防ぎなさい」
 という放送が繰り返されていた。
 この時、母の弟は、陸軍航空隊にいた。
 
 それから、どうしたのかは、母から聞いていない。
 多分、弟の部隊のことや、誰々はどうなったか気にしながら数日過ごしていたのだろう。
 そして、九十三歳くらいの時、
「そうそう、あの時、今、横にいる眞悟ちゃんは、何処にいたのやら」と思い出そうとしたのではないか。
 
 七十九年前は、
 母がいて僕はいない。
 そして今は、
 僕がいて母はいない。