私は過食拒食症だった時があります。父はアルコール依存症でした。
衝動に歯止めがかからない、夢遊病者のように生きていたのです。
私の中の自己否定や自己肯定感のなさが依存症に拍車をかけていました。
しかし私や父だけでなく人類全員が「お前はダメだ」という洗脳を受けています。
ありのままではいけないので皆が何かになろうとします。そして失敗します。
恐怖や不安を埋めるためにスマホやテレビやマンガや音楽や食やアルコールが用意され、
私たちは家畜のようにされています。
恐怖に支配された人間は操り易いのです。親であれ教師であれ社会であれ、皆が他者を支配しようとしているのが今までの人類の歴史でした。
では、見つめる瞑想が人生になぜ必要なのか。
人類は長い進化の中ほぼ動物脳で生きてきました。
それは恐怖や嫉妬や欲望や怠惰や怒りを基本とする回路(シナプス)で出来上がっています。
そこから意図的に離れて、自ら自由に幸せを感じる訓練をしていくことが瞑想です。
動物脳に引きずり込まれない明晰な新しい脳の回路(シナプス)を作っていきます。
気づきがなければたとえ幸せになりたいと思っても、支配的な動物脳(これを潜在意識ということもある)が働いているので、結局のところいつもどうりの苦しみ悩み怒り欲望の人生になってしまいます。
見つめる瞑想(ヴィパサナ瞑想)とは、思考や感情感覚が出て来るのをありのままに見ている練習のことです。
肉体に起きてくる全てのことをただ観察します。
その時、肉体は見られる対象であり、あなたは見つめている意識へと変容していきます。
湧き上がる恐怖も欲望も痛みも全部あなたではなく、観察する対象になります。
「なーんだ、全ては私に起きていたことではなかったのだ。」と解る時、あなたに初めて平安や喜びや慈しみが生まれるのです。
私は20年の寝たきりでしたが、瞑想を続けていたお陰でずっと幸せで平安でした。
その安心感がアメブロの中の藤川先生(分子栄養学)のブログに引き合わせてくれたと思っています。
悲しみに暮れ絶望していたら、さらに酷い闘病生活になり、ブログを書こうなんていう未来を引き寄せたりはしなかったでしょう。
人類のあらゆる依存症や幸せを求めて動き回る落ち着きのなさや言葉や行動の奥に隠れている怒りや衝動が、見つめる瞑想で明らかになります。
私たちはどれほどの怒りや衝動を肉体の中にため込んでいるかを知りません。
自分を見つめれば、あらゆる反応の中に乱暴さや怒りや反論する思考があるのを見いだします。
今までは相手のすることにいちいち反応し、イラッとしたりしても気づけませんでした。
しかし見つめ始めれば、相手のことではなく自分のことにようやく気づくようになり、あまりに反応している自分に笑ってしまうでしょう。
相手ではなく自分こそ不幸の原因であったと気づき、ようやく運命が転換し始めるのです。
そして見つめる意識(光)があれば闇(怒りや貪りや虚しさ等)は消える運命なのです。
いくら良いものを引き寄せようとしても、自分の中にこのような低い波動がしばしば現れていることに気づかねば、現実創造は上手くいきません。
自分を変えようとしなくても瞑想を続けていれば全く新しい自己に変容していきます。
なんと素晴らしいことでしょう。
次回、見つめる瞑想と依存症や衝動や感情への取り組み方について書きたいと思います。
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