今から約30年前の9月に私は花巻kita高校の教員であったが、9月の中旬から一か月の研修に参加することになった。

私が不在となる一か月の間の授業は前倒しに計画的に行っていたが出かけた先は

筑波山の見える文部省の施設で教員仲間では「筑波研修」とよばれていた。

その一か月間、大学教授を中心とした講演が続き、その中日のあたりに教育法規を中心としたいわゆる魔の時間帯があった。この研修に出かける前から教頭から諄々と諭され、「どうしてもわからない時は電話しなさい」とまで言われていた。

これらの思い出は次回以降に触れたいが、この講習でビックリする時間があった。

それは午前中ひとコマ、午後にひとコマという有名講師による講演の一つの最後に起こった。

今は、その講師がだれであったかは覚えていないが、午前中の講義がほぼ終わった時、

その講師が突然「高知県から来た教員は手を挙げなさい」と言ったのである。

当時全国からこの講座には一つの県から4人が参加していた。

高知県の教員が手を挙げるなり、その講師は強い口調で

君たち高知県の教員はどんな教育をしているんだ!」と演壇から叫んだのである。

「君たちはあの坂本龍馬を生み出した土佐の人間だろう!

この前の甲子園での出来事は何たるものか!恥を知れ!」

全国から参加していた約200名の高校教員は正に雷に打たれたように沈黙した。

これがこの1992年(平成4年)8月16日に行われた甲子園での一戦で

明徳義塾の馬淵史郎監督による星稜高校の松井秀喜選手に対する

5打席連続敬遠の出来事に対するものであった。

もうあれから29年の歳月が流れたがこの時の衝撃は忘れられない。

この事件をネットで調べたので引用してこの事件?を振り返ってみよう。

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今大会屈指の好打者といわれた星稜・松井が5打席全部敬遠の四球で打たせてもらえなかった。しかも、明徳義塾の河野投手は1球もストライクを取らず、外角へ大きくはずれる20球を投げただけ。馬淵監督の指示による「敬遠策」はまんまと成功して、明徳義塾は勝ちを手にしたが、果たしてこの勝ち方で良かったかどうか?
試合後、馬淵監督は「四国の野球が石川の野球に負けられない」と豪語していたのに、フタを明ければ姑息(こそく)な逃げ四球策とは。他の四国勢が聞けば憤然とするだろう。〔中略〕
しかし、どんな手段を取ってでも「勝つんだ」という態度はどう考えても理解しがたい。特に、走者のいない二死無走者(七回)までもボール連発を命じた時は、おとなのエゴを見たような気がして、不愉快ささえ覚えた。

— 朝日新聞「大事なもの忘れた明徳ベンチ」1992817日付夕刊8

 

馬淵は試合後、「正々堂々と戦って潔く散るというのもひとつの選択だったかもしれないが、県代表として、ひとつでも多く甲子園で勝たせたいと思った」[20]とコメントし、その後もそうした潔さに喜ぶのは客と相手側だけだ、と語っている[21]。一方、山下は「甲子園で男と男の勝負をしてほしかった」[22]「残念です」[23]とだけ述べた。この試合、明徳に全く勝負させてもらえなかった松井は、試合後インタビューで「正直いって野球らしくない。でも歩かすのも作戦。自分がどうこう言えない」というコメントに留めた[23]

高野連の牧野直隆会長は会見で「無走者の時には、正面から勝負して欲しかった。一年間、この日のためにお互いに苦しい練習をしてきたのだから、その力を思い切りぶつけ合うのが高校野球ではないか」[20]「勝とうというのに走りすぎる。すべてに度合いというものがあり、今回は度がすぎている」[24]といった談話を発表した。

試合前、馬淵監督は意図的に四球を与えているとは思われないよう「演技」することを選手に求めていた[15]。つまり、捕手は座ったままボールを受け、投手もストライクが入らないと言う風に首をかしげ、外野は松井の打席のたびにフェンス際まで下がるようにする、という指示である[注 2]

星稜の試合前のミーティングでは、山下監督には試合巧者の馬淵監督への警戒心こそあったものの、松井に「ランナーおる時は敬遠あるからな」と告げただけだった[9]

 

試合経過[編集]

この試合で明徳義塾は、松井に対して「全打席敬遠」作戦をとっていた。河野は松井に5打席全てストライクゾーンから大きく外れるボール球を投げ、四球を与えた。公式記録は、捕手が初めから立った状態で与えた四球ではなかったため、「故意四球」ではなく「四球」となっている。

松井の最初の打席は1回表、二死から3番の山口が三塁打で出塁し、二死三塁で星稜の先制点のチャンスで迎えた。しかし松井は「当然のように」[9]四球を与えられ、一塁へ歩かされた。

3回表の一死二塁三塁でも松井には敬遠だった。山下監督もここまでは予想していたという[9]。しかし3回表の打席から河野が1球投げるごとにスタンドがざわめき始める。

5回表の一死一塁では、一塁走者がいるにもかかわらず、敬遠を実行。スタンドは完全にどよめきに変わった。

3-2と明徳義塾1点リードの7回表、松井の第4打席では二死無走者から意図的な四球を与える。スタンドからは「勝負、勝負!」の連呼と、明徳義塾に対しての野次が飛ばされただけではなく、一塁側アルプススタンドの明徳義塾の応援席からも

「土佐っ子なら逃げずに勝負しろ!」といった野次が飛び始めた[17]

さらに9回表の最終打席では、二死三塁でも松井に四球が与えられた時には、堰を切ったように球場内は野次と怒号に包まれるという、高校野球では史上まれに見る異様な雰囲気となった。星稜の三塁側応援席や外野席からはメガホンなどの野球グッズやゴミなどの物が大量に投げ込まれ、さらに一般の観客はおろか、この敬遠行為で怒りが頂点に達した星稜の応援団からも、河野ら明徳ナインに対する「帰れ」コールや「殺すぞ」などのブーイングが起こった[2][ 3]。これにより審判はタイムを掛け、試合は一時中断となり、ボールボーイや星稜の控え選手たちが投げ込まれた物を片付けに走った[18][19]。この時、一塁上にいた松井は、憮然とした表情でその光景を見つめていた。

その後、一塁走者の松井が二盗して二死二・三塁となり一打逆転の好機ともなったが、次打者の月岩信成は三塁ゴロを打ってアウトとなり試合が終了。明徳義塾は1点差で逃げ切って勝利を収め、結果的に松井への全打席四球策は成功した格好となった。

試合終了の挨拶の後、両チームで握手を交わした選手は4、5人程度であり、松井を含め他の星稜の選手は、無言の抗議の意味で明徳義塾の選手と握手を交わさずにベンチ前へ急いだ。勝利校となった明徳義塾の校歌演奏の際には、暫くして球場全体の超満員だった観客から「帰れ!」コールの大合唱が大きく鳴り響き、明徳義塾の校歌が掻き消されそうになるほどであった。校歌斉唱後、勝った明徳義塾の選手達が引き上げる中ブーイングが鳴り止まなかったが、負けた星稜の選手達に対しては、たくさんの拍手喝采が送られていた。

 

当然の事ながら抗議・嫌がらせの電話や投書は明徳義塾本校にも殺到する事となり、その中には「今後、明徳義塾の人間が石川県にやってくる事があったら殺す」等と脅迫同然の内容のものも少なからず含まれていた。その影響で入校志望者の辞退が相次いだ他、一部の在校生の保護者からも生徒への風評被害を懸念する声や転校を要望する声が上がるなどした為、学校側はそれぞれ対処に追われることとなった。この状況を知った馬淵監督は、世間を大きく騒がせ、結果的に学校の評判を貶めてしまい、関係者や野球部以外の生徒達にも迷惑を掛けたお詫びにと、学校長に野球部監督の辞表を提出しようとした。しかし、学校長は「間違っていることをしたんじゃないんだから。あそこで監督を辞めさせたら、それこそ教育にならんでしょう」[33]との考えから辞表を受け取らずに慰留、馬淵監督はそのまま野球部監督を続けた。

星稜は選手権大会2回戦敗退ながらも秋のべにばな国体出場校に異例の選出となった(明徳義塾は選出されず)。松井は、国体決勝戦の対尽誠学園高等学校戦の最後の打席で高校通算60号の本塁打を放つなどの活躍により、星稜高校は国体優勝し、前年の第22回明治神宮野球大会に続くシーズン二冠となった。

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この事件の深刻さをいまさらながらに思いだして、深い思いになるが

この馬淵史郎監督はこの令和3年の甲子園にも監督として登場し、

またもや、あの老獪な戦術で秋田県の明桜学園の風間投手を

徹底的に球数を投げさせる作戦で引きおろし、勝利したのである。

私は今でも馬淵監督の明徳が負ければいいといつも思っている。

だから、その後、智弁学園との激闘で最後に明徳がサヨナラ負けした時は感無量であった。

しかもその経過は最初の一点をスクイズで取ったのに大接戦の後、

9回表に明徳の選手がホームランを打って勝ち越し、なお、ワンアウト一塁、三塁の時、

あと1点取ればかなり有利だったのも関わらず今度はスクイズなどの策も使わず

1点どまりだったことがその9回裏の逆転サヨナラ負けになったのである。

 

策士は常には勝利せず!!!  中国の孫氏が生きていたなら、こう言ったかも・・。

 

今年の甲子園は昨日、智辯同士の決勝戦で智辯和歌山が優勝した・・。